オーロラ    1 「絵には魔法があるという」  ……って誰の言葉だったっけ?  まあ、誰でもいいんだけどね。  よーするに、これからわたしがするのは、そういうおはなし。  え? どーいうお話しかって?  だーかーらー、魔法の絵のお話じゃない。  私が昔持っていた、魔法の絵のお話よ。  うそくせーって何よ。うそくせーって。  まーそりゃ、信じる信じないはあんたの自由よ。でもね、  ……なに? そんな前置きするところが余計にうそ臭い?  あーもう! 少し黙りなさいよ、この。  ねぇ。ぶっちゃけた話、あんたが信じようが信じまいが、そんなこたどー でもいいのよ。  私は今、なんだかこの話を誰かにしたくてしたくてたまらないだけなんだ から。  自己中とか言うなー。暇だから何か話せって言ったのあんたじゃない。な に、そういうこと言うわけ? こないだのコンクールのアレ、誰が毎日毎日 貴重な時間をさいてモデルになってあげたのか忘れたのー? あんたが三日 で終わるっていうから引き受けてあげたのに構図が気に入らないのなんだの ずるずるべたべたと二週間も……  ふう。分かればよろしい。  それじゃあね、えーとね、どこから話そうかな。  そうね。  私はその絵を、商店街の片隅の、見るからに怪しい骨董屋で買ったの―― ◇ ◆ ◇ ◆    2  私はその絵を、商店街の片隅の、見るからに怪しい骨董屋で買った。  店の名前は――確か、「むじな骨董店」だかなんだか、そんな名前だった ように思う。埃を被ったその絵をショーウインドウから引っ張り出しながら、 店主は言った。  この絵は有名な絵なんだ。  店主の話によると、その絵はヨーロッパのどこか知らない小さなの国の、 どこか知らない小さな街の誰だか知らない有名な絵描きが描いたものだとい うことだった。  私は思った。つまりそれは無名じゃん。  でも私は、一目見たときから惹きこまれるようにその絵のことが好きにな っていたし、値段も二千円というお手頃な価格だったので(表示価格は二万円 だったのだけれど、あっさりとまけてくれた)、気の早い冬の夕日が裏山の向 こうにすとんと沈む頃には、ネギのはみ出たスーパーの買い物袋を右手に下 げ、左手にもうひとつ大きな紙袋をぶら下げて、意気揚揚と家路についてい たのだった。お使いに出て行った私の帰りが妙に遅いことを心配して玄関で 待っていた母は、大荷物を抱えて帰ってきた私を見て呆れていた。  梱包の済んだその絵を渡すとき、「むじな骨董店」の主人は大真面目な顔 をして、大真面目に私に言った。  ――この絵には、魔法があるんだぜ。  次に私が商店街を通りかかった時には、その骨董屋はいつの間にか潰れて いて、代わりにパチンコ屋が建っていた。 ◇ ◆ ◇ ◆  絵を描くのが三度の食事よりも圧倒的に大好きだった私である。  そんな私が、その絵のどこを気に入ったのかを説明するのはとても難しい。  構図も技法も色使いも、特に優れているわけではない。技術面で言えば、 素人に毛が生えたくらいの、ただのさえない油絵だった。  絵の中心に描かれていたのは、小さな男の子だった。  彼が立っているのは氷の上だ。北極みたいなつるつるした氷の大地の上に、 彼は一人で立っていた。地平線の向こうまで、ずっと氷の大地は続いている。  少年は、万歳するように両手を掲げて空を見ている。  暗い夜空と氷の大地と少年が、くすんだタッチで描かれている。そういう 絵だった。  そしてオーロラだ。  少年の遥か頭上に、鮮やかに色を変えるオーロラが、カーテンのようにた なびいているのだ。私が気に入ったのはそれだった。  時間まで凍りついたような氷の世界の真ん中で、オーロラを見上げる男の 子。  それは決して斬新な構図ではなかったが、何故か私のこころに、特攻隊の ように強烈に突っ込んできたのだ。  それは恋よ。一目惚れというものよー、と母に笑われた。  私はその絵を額縁に入れて自室の壁にかけ、毎日毎日飽きもせずに眺めた。  なんだかやる気が無いときや、暇なときや、テスト勉強に飽きてしまった とき、気がつけばいつもその絵のことばかり考えていた。本当に恋みたいな 感じだったかもしれない。  私はぼーっとしながら、絵の中の彼が、どんな表情をしているのかを考え てみるのが好きだった。  描かれているのは後姿なので、少年の表情は読み取れない。  ねぇ。一体この子はどんな顔をしているんだろう?  綺麗なオーロラを見られて、感動しているのか。喜んでいるのか。  はたまた、独りぼっちで寂しいのか。楽しいのか、泣いているのか笑って いるのか。どれでもありそうで、けれどどれもしっくりとこない感じだった。 いくら考えても分からなくて、 「少年の表情」  そこに、私がこの絵に惹かれた本当の理由があるような気がずっとしてい た。  その頃の私にとって、絵を描くことが私の全てだった。  本当に、掛け値なしに、それは私自身を構成する細胞の全てだった。  幾つかの有名なコンテストでも成績を収めて、自信がついてきていたとこ ろだったし、人にはなんだか気恥ずかしくて言えなかったけれど、心の内で は密かに美大の受験なんかも考えていて、毎日が楽しくて、未来は希望に満 ちていて――  壊れるなんて考えたこともなかった。  地震があったのは年も明けたばかりの一月の明け方――夜中と言っても差 し支えのない時刻だった。爆発みたいな音に目を覚まして、次の瞬間感じた のは、悪夢のような痛みだった。  私は、倒れてきた衣装タンスの下敷きになっていた。腰から下に、二つの タンスが噛み付くように圧しかかってきて、身動きがとれなかった。なんと か抜け出そうともがいた頭に、部屋中を走り回っていたテレビががつんと激 突して、意識にヒビが入った。  十分に呼吸もできず、骨がぎりぎりという音をたてて軋み、頭は割れるよ うに痛かった。まるで脳味噌に太い針の注射器を何本もつきたてたみたいな 痛みだった。私は悲鳴をあげ、やがて悲鳴もあげられなくなった。  一時間後に痛みを感じなくなり、二時間後に救助された。  脳梗塞と診断され、右半身が不随になった。    3  右腕は完全に動かなくなったわけではなかったが、拳を握り締めたり開い たりするのがやっとで、こんな手で絵を描くなんて逆立ちしたって無理だっ た。  そうして私は、絵を描くちからを失ったのだ。  私は、この世にはどうしようもない絶望があるんだと、初めて知った。  それは、ほんとうに、なにをどうしたって、どこにも行きつけない種類の 感情だったのだ。  もう思い通りに動かすことの出来ない右手を見た。  一生懸命に鉛筆を握り締めて描いても、悶え苦しむミミズような線しか引 けない右手を見た。  私は本当に、死体みたいに無気力になった。  車椅子付きで退院してからも、毎日部屋に閉じこもって何もせず寝てばか りいた。食欲とかもまったくなくて、今考えると羨ましいことだけどずいぶ ん痩せた。  そんな日が何日も、何日も続いた。私の人生のエネルギーがグラフのどん 底を這っていた時期だった。今思うと、母はそんな私を本当に心配してあれ これと手を尽くしてくれていたらしい。食事療法からはじまり、ついには心 理学だかカウンセリングだかの専門家まで呼んでしまったくらいだ。  カウンセラーの人は野上さんといった。母の大学時代の友人だとかで、独 身で、やや太り気味だった。どんな時でもにこにこしていて、お菓子をよく 食べる人だった。  野上さんは言った。 「ねぇ、まずは自分が生きてるってことを喜ばなきゃ。あなたは助かったの よ。生きてるって素晴らしいことなのよ」  そうですか。 「あなたが本当に描きたいと思っているのなら、絵だって描けるじゃない。 左手だって、足でだって、口でだって絵は描けるわ。今から練習すればきっ と上手くなる。ねぇ、生きているなら、やりたいことは何だってできるのよ」  母に頼んで、野上さんには二度とこないで下さいと言った。    4  野上さんに帰ってもらった、その夜だ。  私は夕食を適当に食べて適当に残して、ろくに動かない右足を引きずり、 のたのたと廊下を自室へと向かいながら、絶望について考えていた。 『生きているなら、やりたいことは何だってできるのよ』  違うのだ。そうじゃない。  やり直せばいいとか、また描けばいいとか、そういうことではないのだ。  灯りが消えたのだ。私の中で輝いていた光が、消えてしまったのだ。  怖いぐらいに自分の感情が死んでいる。  悲しいとか、悔しいとか、そんな感情は何一つ浮かんでこなくて、右半身 を失ってからも、涙の一滴すら出なかった。 本当の絶望は氷のように冷く、全ての感情を凍らせてしまうのだ。  部屋の中は、これまた絶望的に散らかっていた。  当然私に片付ける気力などあるはずもなく、荒れ放題に荒れるままにされ ていた。  なんだかんだ言って、野上さんに言われたことが結構パンチが効いていて、 私はこれ以上なくへこんだ気分でいたし、ぼんやりと、死んじゃおっかな、 なんてことまで考えながらどすんとベッドに寝転んで蛸みたいにぐにゃぐに ゃの無気力なまま滅茶苦茶に散らかった部屋をうんざりとした気持ちで眺め  見た。  あんまり大変なことが起こりすぎていて、  それどころではなく気がつかなくて、  地震にかき回された姿のままろくに片付けてもいなかった部屋の中で、  沢山飾ってあった絵はぜんぶ壁から落ちて床にぶちまけられていて、  でも、たったひとつだけ壁に残っていた額縁の中に、  斜めに傾いた黴臭くて古臭いなんともさえない額縁の中に、  残っていた絵を、私は見た。  それは、いつか骨董品屋で買ったあの絵だった。  冷たいオーロラを見上げる、少年の絵だった。  大好きだった、あの絵だった。  ――ねぇ。いったいこのこは、どんなかおをしてるんだろう?  私は唐突に理解していた。はっきりと。  この少年は、私と同じ顔をしている。  間違いなかった。彼は、今の私と同じ顔をしているのだ。  彼は絶望している。  どんなに手を伸ばしても手の届かないところにある、美しいものを見上げ て、世界の最果てで、冷たい氷の上で、たった一人でどこへも行けずに泣い ている。  これは、悲しい絵なのだ。  少年の手は、オーロラには、絶対に届かない。  少年は、氷の上から、どこにも行けない。ひたすらに冷たくて、ひたすら に孤独で、ただ遠い遠い空だけが美しく七色に輝いている。憧れる。行き着 けない。  そうやって少年は、つきあたりの悲しみの中に閉じ込められている――ま るで北極のようなつきあたりの悲しみの中に、閉じ込められているのだ!  永遠に!!  次の瞬間、暴力的なまでの衝動が私を突き動かしていた。  私はおもむろに、壁にかかっていた額縁を外して、思い切り床に叩きつけ た。  絵はフローリングに小さな傷を残して転がった。  私はその絵を拾い上げ、机の角に何度も何度も叩きつけた。くるみ割り人 形がくるみを割るみたいに、私は全力で額縁を打ちつけた。  骨董屋がくれた額縁は、安物のくせに頑丈だった。  私は一体自分は何をしているのだろう、と思った。  思ったが、手は止まらなかった。  そうしないわけにはいかなかったのだ。私の中の深くで震えていた何かが、 膨れ上がった感情の塊のようなものが、爆弾みたいに私の外側の硬い部分を 吹き飛ばしてしまったようだった。恐らくそれは、私がずっと抱えていた爆 弾だったのだ。  私は、溢れてくるわけがわからない悲しみに嗚咽を漏らし、掠れた声で叫 びながら馬鹿みたいに額縁を叩き割った。砕けた額縁の中から油絵を引っ張 り出して、階段で二度転び、何もない廊下で三度転んで、不自由な体を無理 矢理ひきずって庭に出た。  倉庫の奥に転がっていた鉄のバケツの中に絵を放り込んで、台所から持っ てきたサラダオイルをかけて、焼いた。震える右手を使ってマッチを擦るの はひどく大変で、五本を折って、六本目でやっと火がついた。  それから、私は私が今までに描いたすべての絵を焼いた。  金賞をとった絵も、佳作だった絵も、大好きだった絵も納得がいかなかっ た絵も誉められた絵も徹夜で描いた絵も明るい絵も暗い絵も、どの絵も同じ ように燃えた。  ひとつ、ひとつの絵を、二つに裂いて火の中に投げ込んでゆく。  真っ暗闇の庭で、深夜のニ時で、静かな夜だった。  ときおり、火の粉がパチパチと爆ぜる音だけを聞いていた。  炎は温かくて、優しかった。不思議なことに、私の絵を火種にどんどんと 燃える炎を眺めていると、少しずつ、少しずつ、私の気持ちの中のずれてい た部分が、ねじまがってしまっていた部分が、ゆっくりと癒されていくよう な気がした。  これは私自身の欠片を千切って、私自身が焼いた炎なんだと思った。私は 焼いているのだ、私自身が見上げていたオーロラを。  燃える炎。  私はもっと炎の近くに寄ってみたくなった。側に寄ると、火は焦げ臭くて 熱く、明るくて、目に染みるように輝いていた。  じっと見つめているうち、知らないうちに涙が出ていた。  オーロラの無い夜空に、灰色の煙が上がっていく。  私は両手を広げて空を見上げる。炎が照り返す。  これでよかったんだよね? と誰かに聞いた。  これでよかったんだよと、誰かが答えたような気がした。  次の日から、私は左手で絵を描き始めた。 ◇ ◆ ◇ ◆    5  あれ……? なにあんた。  や、やーね、そんな真剣な顔して聞き入っちゃって。  やめなさいよ、なんであんたがしんみりなるのよ……。  そう、いーのよ昔のことなんだから。今はこれでもこの通り、ちゃんと楽 しくやってるんだから。みんなもあんたもわたしもいるしさ。ほらー、だか ら平気だってばー。  えっとね。  でもね。  ここで終わってれば、私のお話は、幾分綺麗なものにまとまっていたかも しれない。  だけど実際は――この話には、もう少しだけ続きがあるの。  そう、魔法。  まだ魔法が出てきてないもんね。  ねー、いい?  あの変な店のおやじは、確かに私にこう言ったのよ。 「この絵には、魔法があるんだぜ」  それは私が、左手で描く絵にも、ようやく慣れたくらいの頃でした―― ◇ ◆ ◇ ◆  それは私が、左手で描く絵にも、ようやく慣れたくらいの頃だった。  絵画教室の帰り道、私は自宅の門の前でけっこうな苦労をしていた。悪戦 苦闘と言っていい。こればっかりは経験してみないと分からないことだろう けど、巨大なキャンバスを抱えたまま車椅子で玄関をくぐるというのは、か なりの集中力を要する行為なのだ。  数人の小さな子供たちが、楽しそうに騒ぎながら、道の向こうから走って くるのが見えた。私は少しの間動きを止めて、彼らの様子に見とれていた。 見とれながらぼんやりと、元気よく走る子供たちのことを羨ましく感じたり していたのだ。  その時だった。  子供たちの集団の先頭を走っていた少年が、私の前でぴたりと立ち止まっ たのだ。  彼がリーダーとなって他の子供たち先導していたらしく、その少年が立ち 止まると他の子供たちもみんな私の周りに集まってきた。彼らの中には、男 の子もいれば、女の子もいた。  しかし私は何故先頭の少年が、突然私の前で立ち止まったのかが分からな かった。私には小さい子供の知り合いなんていないし、いたとしてもこんな 子に見覚えは――  困惑している私に、少年は声をかけてきた。 「やあ」  その瞬間、私は気が付いた。  この少年は、あの絵の中の、オーロラを見上げていた子供なのだというこ とに。  間違いない。間違えるはずがなかった。  彼は言った。 「こんにちは」  彼は言った。 「これから、みんなでオーロラを見に行くんだ」  彼は、確かにそう言ったのだ。これから、みんなでオーロラを見に行くん だ。私はそれを聞いたとき、飛び跳ねたいほど嬉しくなった。残念ながら、 車椅子ごと飛び跳ねることはできなかったけれど。  かわりに私はにっこりと笑って、訊いた。 「北極まで?」 「うん。北極までね」 「みんなで?」 「うん。みんなで、さ」  自信たっぷりにそう言って、彼もにっこりと笑った。  それから、まったく二人同時に、こう叫んだ。 「ありがとう!!」  私は子供たちの背中が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、大き な伸びをひとつして、玄関をくぐった。暖かい、春の日差しのような嬉しさ が、子供みたいなわくわくした気持ちが、胸の中いっぱいに溢れていること を感じていた。  美しいなにかが、オーロラのように、確かに輝き始めていることを感じて いた。 (That's all)