十二月十五日暴飲暴食注意報           †  ふたり合わせて十枚になった。それが、表面的な意味での「発端」だった。 「サンタセール・抽選会?」 雪絵ちゃんが屏風折りのチケットをびろんと広げて、書いてある文字を読 み上げた。 「商店街の、入り口のところでやってるらしいよ」  日頃の感謝の気持ちを込めて、クリスマスの贈り物!『サンタセール・抽 選会』!  新北町商店街内の店舗で商品五百円以上お買い上げにつき抽選券を一枚プ レゼント。十枚集めれば一回の抽選に挑戦できます。一等お買い物券四万円 分、二等お買い物券ニ万円分、三等お買い物券五千円分、四等スッポン堂漢 方セット、五等全店百円割引券。六等ティッシュ、空くじ無し。 「いい加減ティッシュは空くじだと認めて欲しいよね」  などと私は栓の無いことをつぶやく。  駅前のショッピングモールは、制服姿の学生たちで賑わっていた。  期末テストは今日でロンギヌスの槍に貫かれて死んだ。ジ・エンドだ。ホ ームルームを聞き流し、やる気なく掃除を終えてからバスに飛び乗っても、 お昼まではまだ一時間ちょっと時間があり、ちょっと寒いけど良く晴れた。 こんな日に寄り道しない学生は学生じゃない。私はCD屋で冬のラブ・ソン グを買い、雪絵ちゃんはどこかの画家の画集を買った。 「折角だし、やってみよう? いこういこう、あっちだよ」  雪絵ちゃんはいつになくはしゃいでいた。向き直ると、彼女の長い黒髪が、 水の中で揺れる透明な川の流れみたいにきらきらと輝いて見えた。  今日の彼女はとりわけ美しかった。同じ女の子どうしでも、思わずはっと してしまう瞬間を幾つも無限に生み出した。  私は彼女と並んで歩き出す。雪絵ちゃんはちょっと早足。 「ね、どうだった?」  と私は聞いた。 「んー。英語は結構埋めれたけど、数学がちょっと自信ないかな?」 「そっちじゃなくてー」  テストの話をしたいわけじゃない。 「ねー、だから、どうだったのよ?」  私が彼女の顔を覗き込むと、彼女はにっこりと微笑んでいた。  それで私は誤解した。やったなこいつと嬉しくなって、いいなぁこいつと 嫉妬した。  今日は十二月十五日。アーケードに流れているのはクリスマス・ソングば かり。クリスマス・ソングを聴くと、自然と心が弾んでくるのは何故だろう。 うきうきした雰囲気で満たされた街の中を、色んな人の、勝手気ままな足音 が、空に響いては消えていた。 「あ、あそこでやってるね、抽選会」  雪絵ちゃんが指した方向には、仮設されたテーブルを赤と緑の装飾で彩っ た抽選会場があった。人がちょっとした列を作っている。両手に山ほどのテ ィッシュを抱えた男性が、悔し涙を必死で堪えながら引き下がっていった。 きっと抽選会マニアなのだろう。 「並ぼう、未久ちゃん」  と雪絵ちゃんが言った。みくちゃん。 (名前だけなら可愛さ負けしてないんだけどなぁ……)  ああ。  だが成績と、知性と、性格と、身長と、性的魅力と、料理の腕でノックア ウトされている。とても同じ女子中学生とは思えない。孔子の野郎は「論語」 の中で自分より劣っている人間を友人にするなと言っていた。孔子はじいさ んだったから繊細な乙女の敗北感なんて想像もしなかったのだ。  私は人知れず悔し涙を流しながら雪絵ちゃんに引きずられ、サンタ・セー ル抽選会の列に加わった。  とにかく、今日の雪絵ちゃんは本当に可愛い。ずっとにこにこしていた。  笑う門には福来る、とも言う。彼女の笑顔に幸運の神様も騙されたのかも しれない。 スッポンが当たったらどうしようと心配していた私をよそに、雪絵ちゃん は、抽選で一等賞を引き当てた。           †  幸運とびっくり箱は、驚く瞬間が一番楽しい。 「……さて、どうしよっか?」  そんなわけで、思いもかけずベルと拍手に祝福されてしまった興奮をひと しきり味わった後で、突然舞い込んだ幸運の四万円の配分の方法に、私たち は頭を悩ませていた。  ニ万円ずつ分ければいいねと考えてのし袋から取り出した商品券は、駅前 ショッピングモール全店共通のお買い物カードだった。一枚のカードに四万 円分のキャッシュが登録されているタイプで、二人で山分けするにはひどく 不向きだ。家に帰って工具箱の中のペンチを使えば真っ二つに割ることはで きそうだったが、もちろんそんな分け方に意味は無い。 「こんなもんだけハイテク化しなくてもいいのにね……」  アーケードの薄汚れた蛍光灯を見上げて、私は嘆息を吐き出す。 「じゃあさ、さきに未久ちゃんがニ万円分使って、その後で私が使えばいい かな」  雪絵ちゃんの提案はいつも謙虚だ。 「今すぐニ万円分も欲しいものも、ないしなぁ……」 「私もいつでもいいよ」  やっぱりなんか不便だなぁ、と互いにぶつぶつ呟きながら歩いた。  アーケードに、デジタルで再現された鐘の音が鳴り響いた。  デパートの飾り時計台の扉が前触れ無く開いて、中からそれぞれの楽器を 携えた小人が出てくる。ベルに、フルート、バイオリン。三人の小人はくる くると回転しながらミッキーマウス・マーチを2メロまで演奏して、再びば たんと時計の中に閉じ込められた。 「あ、十二時だ」  長年この駅前で生活している私は、ミッキーマウス・マーチを聞けば腹が 鳴る。こういう条件反射を、パブロフのわんわん王国効果というのだ。 「あのさ、雪絵ちゃん、お腹すかない?」 「そういえば、ぺこぺこだよ」 「じゃあとりあえず、その辺のお店で何か食べよっかー」  雪絵ちゃんと一緒にお昼をするのは珍しいことではない。私は二人でよく 行くグルメ街の方向へと進路を変更し、歩き出し、十歩ほどしてから雪絵ち ゃんがついてきていない事に気がついた。  振り返る。  雪絵ちゃんは、行きて去り行く人の流れの中、はたと足を止めていた。  どうしたのと尋ねると、雪絵ちゃんは人指し指を立てて言った。 「あのさ未久ちゃん。提案があるんだけど」 「ん、なに?」 「未久ちゃん、今ダイエットしてる?」 「いや、してないけど……」  実は先週で祝・断念七回目だった。  雪絵ちゃんは言った。 「じゃあ、おいしいものを食べよう」 「は?」  雪絵ちゃんはのし袋から取り出した商品券を掲げて、悪戯っほい顔で微笑 んだ。 「この商品券を全部使って、おいしいものをお腹いっぱい食べてみようよ」  冬はときどき奇妙なものを運んでくれる。  私は、雪絵ちゃんが、気でも違ったのかと思った。 「四万円で……?」 「うん」 「四万円、全部使って、おいしいものを……?」 「そう」 「ジョーク?」 「いいえ」  雪絵ちゃんは、真剣な面持ちで頷いた。目が語っていた。 彼女はマジだった。 「未久ちゃん、このあいだ言ってたよね。ツーワンのアイスクリームとか、 ラ・フレッツェのケーキとか、有り金全部はたいてお腹いっぱい食べるのが 夢なんだって」 「言ったけど……。雪絵ちゃん、正気?」 「今がチャンスだよ」  彼女の顔に浮かんでいる魅力的な微笑みは、揺らいでいない。微動だにし ていない。私は彼女の真意を測りかねる。 三枝雪絵はユーモアの分かる友人ではあったが、決してこんな馬鹿を言う 人間ではなかった。はずだった。のだが。 「…………」  ふたりの間に、象よりも重く、黒猫よりも暗い緊張が張り詰めた。 「どうする未久ちゃん? やる?」  常軌を逸した彼女の問いに。 「…………や」  やめとこうよ、という言葉が喉元まで出かかった。  だが。  私は、成績と知性と性格と身長と性的魅力と料理の腕で雪絵ちゃんに負け ている。  ここで引き下がるなんて、女の意地が許さなかった。  私は拳を固く握り締め、彼女の目を見て、頷いた。 「…………やってやろうじゃないの」  かくして、史上最大の作戦が始まった。  私たちはショッピングモールの端っこまで引き返し、全てのお菓子屋と食 料品売り場をひとつ残らず撃破した。武器は握りしめた四万円分の商品券。  ケーキ屋でケーキを買い、ドーナツ屋でドーナツを買い、クレープ屋でク レープを買い、果物屋で果物を買い、弁当屋で弁当を買い、またケーキ屋に 引き返してケーキを買った。  フライドチキンはバレルで買った。ポテトチップスは目につく種類を全て 買い物かごに放り込んだ。食べ比べをしたら楽しいだろうと、馬鹿な会話を していた気がする。  黄色の香りに誘惑されて、ビニール袋いっぱいに蜜柑を詰めた。雪絵ちゃ んがこたつで食べるアイスクリームは最強だと主張したので、クーラーボッ クスを買って箱アイスを入るだけ押し込んだ。レジカウンターのおばさんは 青い顔をした。 「これも美味しそうー!!」 「ねーねーみくちゃん、和菓子も買おうよ」 「知ってた? 豆大福を電子レンジで溶かすとどろっとしてなかなか……」  クリスマスソングが流れるムーディな午後のショッピングモールを、セー ラー服を着てスカートを穿いた買い物袋の塊がふたつ、よろよろ歩きで闊歩 した。  宵越しの金を持たない江戸っ子も裸足で逃げ出す無駄遣いっぷりに、道を 空けない通行人はいなかった。           † 「さーて……」  口を閉じ、鼻から大きく息を吸って、唾液を飲み込み深呼吸。 「喰うぞおぉぉ――――!!」 「おお―!」  山盛り積んだ買い物袋を、片っ端からひっくり返して袋の中身をぶちまけ る。  ここは雪絵ちゃん家のリビングだ。両親は共働きでこの時間帯はいつもい ない。  決して大きな家ではないが、隅々まで清潔に保たれている。家は住んでい る人間の本質を映す鏡だという。雪絵ちゃんの一家以上に幸せという言葉が ぴったりくる家族を、私は知らない。  その平和の象徴であるリビングが、一変した。  来客の尻をうずめる為のソファーは、食料の重みでどっぷりとへこんだ。  雪山を滑り落ちる雪崩のように、カーペットの上に広がっていく猛烈な量 の、食品、食品、食品。四万円分は、想像以上に凄まじい。  私があまりの量に圧倒されて、どれに手をつけようか決めあぐねているう ちに、雪絵ちゃんが大好物のオールドファッションドーナツに手を伸ばして かじり始めた。  それを見て、私もとうとう腹を決め、クリームパンの包装を破った。かぶ りつく。甘い。  私はあっという間にクリームパンを平らげ、次なる目標にとりかかる。  はっきり言って、ここまでの一連の行為は、信じられないくらい快感だっ た。  手当たり次第無茶苦茶に買い込んで、それを好き勝手な勢いで食べていく。  何が楽しいのか分からないくらい、意味不明に楽しい。  見れば、雪絵ちゃんは既に二つ目のドーナツを攻略して、アプリコットケ ーキにフォークを突き立てている。 「美味しいね」  と、彼女は幸せそうに微笑んだ。 「ん。美味しいね」  と私も微笑んだ。  ときおり彼女が入れてくれた紅茶を飲みながら、私たちはしばらくの間、 皮下脂肪もテストの結果も全て忘れて、ただ純粋な食べる楽しみだけを享受 し続けていた。  もちろんそんな幸せは長くは続かなかったわけだが。  胃袋の収容能力が限界に近づき、満腹中枢が刺激されるにつれ、食べる行 為は快楽からしだいに苦痛へとシフトしていく。 食事開始から一時間三十分ほど経過した頃、クリームパンと、カレーまん と、牛丼と、ポテトチップを二袋とチーズケーキ、そしてチョコレートムー スを半分まで削ったところで私の食欲は消え失せた。 「あーだめ、もう入らない……」 「まだこんなに残ってるよ」  雪絵ちゃんに言われ、改めて積まれた食料の山を見て、私は愕然とした。  それは、最初の質量からほとんど減っていないようにすら思える。需要を 圧倒的に上回るボリュームを与えられた食品の山は、食べ物というより、怪 物に見えた。 「やっぱ多すぎだったって……」  うめいた私の横で、雪絵ちゃんはまだ淡々とフォークを動かしスパゲッテ ィ弁当を食べていた。ケチャップを絡めたしなびた麺が、彼女の小さな唇の なかへつるつると吸い込まれていく。 「捨てるのはもったいないよ。せっかく買ったんだから、食べなきゃだめだ よ」 「そんなこと言ったってさ」 「食べるの」  短い返事。  私の言葉には聞く耳を持たない様子で、雪絵ちゃんは頑固に食事を続ける。  彼女の表情から、いつの間にか笑顔が消えていることに、私は気付いてい た。 「雪絵ちゃん……、今日、少し変だよ?」 「いいから、食べるの」 「雪絵ちゃん?」 「…………」  雪絵ちゃんはとうとう無言になった。  私は彼女の表情を覗き込もうとして、止めて、仕方なく新しいポテトチッ プスの袋を開けた。  その後さらに数十分、私たちは、何かに取り憑かれたように、食べて食べ て、食べまくった。           † 「もうよそうよ……! 雪絵ちゃん!」  まだ新しい食べ物に手を伸ばそうとしていた雪絵ちゃんの肩を掴んで止め た。 彼女は無言で私の手を振り払い、口の中に無理矢理パンを押し込もうとす る。雪絵ちゃんが鬼気迫る表情で私を見た。顎が動いていない。噛んでいな い。  私はぞっとした。 「よせって!!」  気がつけば私は、彼女を、リビングのカーペットの上に力任せに引きずり 倒していた。抵抗しようと伸ばされた細長い腕は、軽い力であっけなく振り 払うことができた。雪絵ちゃんは綺麗な女の子だ。喧嘩の仕方なんて知らな いのだ。  私は彼女を組み伏せて、彼女のおでこに噛みつくように叫んだ。 「もう十分だよ、もう十分お腹いっぱいでしょ!?」  雪絵ちゃんが、びくりと震えて、我に返った。  彼女は、しばらく呆然と私の顔を見詰めていたが――  やがて力なく、微笑んだ。 「あはは……」  掴んだ雪絵ちゃんの小さな肩から、風船から空気が抜けるように、力が抜 けていくのが分かった。口の端がふやける みたいに弛緩して、か細い言葉が漏れた。 「……うん、もう限界だね。お腹ぱんぱんだよ……」  それで私も力が尽きて、私たちは二人して、行儀も礼儀も投げ捨てて、カ ーペットの上にくたびれたパンダみたいに転がった。  つい数分前まで餓鬼の戦場さながらだった修羅場は、平和なリビング・ル ームへと復帰した。  気づけば静かな午後だった。暖房のぬるい風が体を撫でて、北風が吹きぬ ける窓の外では、裸をさらした街路樹が、うらやましそうに揺れながら私た ちをみつめていた。 「それにしても、いっぱい食べたね……」 「うん。食べ過ぎた……」 「なんでこんなに食べたんだろうね、私たち……」 「なんでだろーねー」  馬鹿みたいに重い内臓。寝転んだ視線の先には食べ散らかしたゴミと、い まだに轟然とそびえたつ食料品のアルプス山脈。  なんだかすごく馬鹿な事をした後で、身を包む脱力感は少し気持ちよかっ た。  満腹感は眠気に変わった。 「私、ちょっと、トイレいくね」  雪絵ちゃんが立ち上がり、おぼつかない足取りでリビング・ルームを出て 行った。私はいってらっしゃいーと口の中で返事をして、再び転がった。  耳の端っこに、雪絵ちゃんのスリッパがぱたぱたと廊下を叩く音だけが聞 こえていた。眠たい。清潔に磨かれたフローリングの廊下の上を、雪絵ちゃ んのスリッパを履いた石焼き芋がトイレへと向かう意味不明なイメージが浮 かび、泡のように消えて、私の意識は薄れていく。どこか遠くの世界からト イレのドアが開く音がした。押し寄せる睡魔に飲まれて私はゆっくりと瞳を 閉じて―― 「おえ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛っ――――――――――――――――― ――!!」  跳ね起きた。  雪絵ちゃんの声だった。  慌てて立ち上がり、リビングを駆け出ようとして誰かが放り出したままの パンを踏みつけて転んだ。はみ出たチョコレートクリームがフローリングを 汚したが、私はとりあえず優先順位を計算して構わずトイレへと走った。  廊下に響く、呻き声。 「え゛え゛ええええええええええええっえっえ……」  声は、始めは、嘔吐の音だった。  だが、  いつからだろう?  それは、  泣き声。  むせび泣く、嗚咽に変わっていた。  廊下を駆け抜け、トイレのドアを開け放つ。鍵はかかっていなかった。 「雪絵ちゃん!!」  私の呼びかけは水洗トイレが流れる音に消されたが、届かなかったわけで はないだろう。  だが彼女は、膝をつき、前かがみに便器に顔を埋めた姿勢のまま、動かな かった。私が綺麗だと憧れた黒髪は、嵐に出会ったように乱れて、トイレの 床に張り付いていた。真冬に積もった雪のように細くて白い指先は、柔らか い腕に、傷を残す深みまで食い込んでいた。  雪絵ちゃんの、肩だけが、小さく震えていた。自分を抱えて泣いていた。 「み、くちゃん……」  顔を上げた彼女の瞳からは、とめどない涙が流れていて。  彼女は一日中、にっこりと微笑んでいた。  それで私は誤解した。  でも今日の雪絵ちゃんは明らかにおかしかった。無理をしていた。  私だって樫の木じゃない。女の子だ。  本当はもう、気がついていたんだ。   「そう……」  私は彼女の髪に手を触れて、ぐしゃぐしゃの顔を覗き込んで、抱きしめた。 「駄目、だったんだね」 「うん……」  彼女は、喉に詰まった塊を吐き出すように、便器の中へ、言葉を捨てた。 「他に、好きな、人が、いるから、ごめんって、お前とは、付き合えないっ て」  何度もしゃくりあげながら。  何度も涙に詰まりながら。 「はっきり、言ってくれて、だから、よかった、けど、けどね」  雪絵ちゃんは綺麗な女の子だった。  綺麗過ぎた。  彼女は今日、三年間の片思いにケリをつけるために、生まれて初めての告 白をした。  彼女にとっての、冗談みたいに遅い、生まれて初めての恋だった。 「わたしね、すごく、すごく、すきだったんだよ、だから、なのに、ね」 「うん……うん」  頷きながら、私の胃袋はしくしくと痛んだ。物置の奥に押し込んで忘れて いた古傷が、深い暗闇の底でごそごそと身動きを始めたような痛みだった。  だから、何か、  何か満たされずに食べ過ぎてしまった食べ物と、  溜め込みすぎた想いを、  残らず吐き出せるように。  私は精一杯のやさしさを手のひらに集めて、雪絵ちゃんが落ち着くまでず っと、彼女の背中をさすっていた。 (That's all)