ゲオルギイ  ゲオルギイという怪物がいた。  ある夜、ゲオルギイが洞窟のなかで目を覚ますと、なにかちっぽけな塊が、 彼の腹の下でもぞもぞしているのを感じた。洞窟は完全な暗闇で、姿は見え なかったが、耳をすませば小さな生き物の息づかいが聞こえた。 「そこにいるのは誰だ」と、ゲオルギイはうめいた。 「わたしアラベラよ」と、そのちっぽけなやつは答えた。「あなたはだあれ?」 「おれはゲオルギイだ」とゲオルギイは答えた。「おまえはどうしておれの 巣穴に入りこみ、おれの腹のあいだにもぐりこんでいるのだ」  ちっぽけな声は驚いたように「あら、これはあなたのおなかだったの?  つかんじゃってごめんなさいね。だってあんまり温かかったんだもの。あた し、寒くて、あんまりあなたが温かかったものだから、抱いてるうちに眠っ てしまったんだわ」といった。  ゲオルギイは巣穴に他の動物が入りこむのを好まなかったが、おなかが温 かいと言われたのは、なんだか悪い気がしなかった。それで「ふーむ」と、 自分でもいいのか悪いのかよく分からない返事を鼻息でかえした。  そのとき、ようやくはっきりと目が覚めてきたゲオルギイは、洞窟のなか に漂う臭いに気がついた。「おや、人間の臭いがするぞ」  それはおかしい、とゲオルギイは思った。このあいだ食べた人間は、骨ま で残さず胃のなかで溶けたはずなのだ。臭いが残るはずがない。ゲオルギイ が巨大な鼻をひくひくさせて臭いのありかを探っていると、例のちっぽけな やつがこういった。 「まあ。人間ってそれ、きっとわたしのことだわ」 「ばかをいうな」ゲオルギイは驚いた。言葉を話せる人間がこの世にいるな んて信じられなかったのだ。ゲオルギイの洞窟には、週に一度生け贄に選ば れた人間が運ばれてきたけれど、彼らはいつも意味の分からない叫び声しか あげなかった。それでゲオルギイは、「ギヤアア」や「オタスケオオ」が人 間の泣き声なのだと信じて疑っていなかった。  だから、ゲオルギイはいった。「言葉をしゃべれる人間なんているわけが ないだろう」 「あら、そうかしら」ちっぽけなのはくすくす笑った。「そんなにいうなら、 たしかめてみてもよくってよ」  おかげでゲオルギイは、洞窟の外へとずるずるはい出す羽目になった。空 に浮かんでいるぴかぴかの玉がまぶしくて、ゲオルギイは目を細めた。思え ば最後に外に出たのは、何日前のことだったろうか。 「ワーオ、あなたって、やっぱり大きいのね」  くすくす笑うちっぽけなのは、たしかに人間そっくりだった。だけど、す こし小さい。それにゲオルギイの知っている人間はくすくす笑ったりはしな い。  ゲオルギイはいった。「やはりおまえは人間ではないな」 「じゃあ、わたしはいったい何なのかしら?」  ちっぽけなのは困ったように首をかしげた。  ゲオルギイも困ってしまい、首をかしげた。  ふたりはしばらく同じ角度で悩んでいたが、やがてゲオルギイが、はたと 気がついて叫んだ。 「そうだ! おれは知っているぞ。おまえはアラベラだ、そうだろう」 「そうよ、わたしアラベラよ」ちっぽけな(人間そっくりだけどちがう)や つは、にっこり笑ってうなずいた。「そしてあなたはゲオルギイ、でしょ!」  これでゲオルギイは、ちいさなアラベラをすっかり気に入った。アラベラ のほうも気持ちが楽しくなってきて、ゲオルギイのまわりを、栗色の髪を振 り回しながらくるくると踊った。ゲオルギイがそれに合わせてかぎ爪のつい た足をどすんどすんと踏み鳴らすと、アラベラは跳び上がって「ワーオ!」 といって、それから口元を押さえてくすくす笑った。 「気分がいいときはね、うたえばいいのよ」アラベラはいった。「ねえ、う たっていい?」  ゲオルギイがうなずくと、アラベラはうたった。  おまえは おおきな 罪をおかした  おまえの魂が 天へと昇る ことはない 「変な歌だな」とゲオルギイは顔をしかめた。 「ええ、でも歌ってったら、わたしが知ってるのは、これっきりなのよ」と アラベラは答えた。彼女は人間たちの村がある方角を見つめながら、「村の ひとたちが、おかあさんにむかってよく歌っていたの。何度も聞くからすっ かりおぼえちゃったわ」といった。「ふーん」ゲオルギイも、アラベラに並 んで、彼女が見つめている方角を同じように眺めてみた。「おれは人間を食 べるぞ」 「わたしも食べたことがあるわ。あのね、ブリギータがあんまりしつこく髪 の毛をひっぱるものだから、わたし、噛みついてやったことがあるの」アラ ベラはそういって、その時の味を思いだして舌を出した。「でもチョコレー トのほうが好きね」  それからひとしきりうたい、踊ったあとで、くたくたに疲れたふたりは洞 窟のなかに引き返してぐっすりと眠った。  翌朝、ゲオルギイは生け贄を届けにやってきた人間たちに、「これからは 生け贄だけでなく、野菜や果物、それにパンも持ってこい!」と叫んだ。  悲鳴をあげて逃げていく背中に向かって告げる。 「それからチョコレートも!」  次の日から、生け贄は大量の作物を抱えてやってくるようになる。アラベ ラは、こんなにたくさんのお昼ごはんは見たこともないと喜ぶ。ゲオルギイ は彼女に食べ物を与えてから、洞窟の外の樹に縛られている生け贄を食らう。 ゆっくりと時間をかけて血の一滴まできれいに飲み干し、汚れた牙を湖で洗 う。穴のなかに戻ると、アラベラはもう食べられないと言いながらごろごろ 転がって、チョコレートを舐めている。あまった食べ物はゲオルギイが一口 で飲みこむ。  夜が来るたび、ふたりは洞窟をはい出して、ぴかぴか光る玉の下で踊った。 ゲオルギイはぴかぴかの玉は月という名前だと、アラベラに教えられて知っ た。 「あれはなんであんなにぴかぴか光ってるんだ」ゲオルギイは不思議がった。 「月にはね、きっと、ぴかぴかの宝石がごろごろしてるからだよ」アラベラ は答えた。 「そいつはすごいな」  風のよく冴え渡った夜には、ゲオルギイはアラベラを乗せて、飛ぶように なった。アラベラが彼の体躯から生えている真っ黒な翼を見て、「ゲオルギ イは、空飛べるんだね」とうっとりしたため息をついたのだ。  でも、正直なところ、ゲオルギイは自分の体に翼が生えていることなんて、 すっかり忘れてしまっていたのだ。洞窟のなかに引きこもって、ふもとの人 間たちに命令をするだけの生活に身を浸すようになってからは、体を動かす ことなんて、面倒なだけだったから。  昔は飛べた。今でも飛べる自信はなかったけれど、ゲオルギイはアラベラ に見栄をはった。「もちろん飛べるとも。おれは大きくてつよいゲオルギイ だぞ。すごいだろう」  アラベラは大喜びした。「すごい、すごい。飛んでみせてよ」  そこでゲオルギイは突きだした崖の淵から飛び出して、頭から地面に激突 したのだ。盛大にどかんと。アラベラは崖下を見下ろし、口元を押さえて 「ワーオ」といった。  それでも何日かすれば、ゲオルギイの翼はふたたび風を捕まえるようにな った。アラベラは、ゲオルギイのでこぼこした鱗につかまって山や湖の上空 を飛ぶとき、いつも上機嫌であの歌をうたった。彼女の知っているただひと つの歌。調子をあわせて、ゲオルギイも吼える。いつも飛行の最後に、ひと きわ高く上がるとき、アラベラはゲオルギイの耳にほっぺたをこすりつけて こう囁くのだ。 「このまま月まで飛べる? ゲオルギイ」  月は遙かな上空で世界の全てを見おろすように輝いていて、ゲオルギイは、 あそこまでは届かないと思う。でも、アラベラには見栄をはって答える。 「もちろん飛べるとも。風の調子が良ければね」  アラベラは嬉しそうにくすくす笑って、じゃあ、風の調子の良い日には、 月まで連れていってくれる? と尋ねる。  ゲオルギイは、ああ、連れて行ってやるとも、と答える。ただし、とくべ つ調子の良い日にだけどな。アラベラは、約束だよ? としつこくすがり、 ゲオルギイは笑いながら、ああ約束だと答える。ふたりは地面に降り立ち、 次の午後まで寄り添って眠る。  そんな日が、何日も、何日も続いた。  ふもとの村では、森の魔物の洞窟に、新たに魔女が棲みついたという噂が 広がる。  村では先日、魔女の嫌疑がかけられた女性を処刑したばかりで、この噂は 瞬く間に人々の気持ちを不安の渦に陥れた。ほらみたことか、あの女はやっ ぱり魔女だったんだ。魔女だから、焼いても天に召されず蘇ったんだ。そう いえば、頭のおかしいひとり娘はどこにいった?  生け贄は相変わらず食い殺されるうえに、最近では彼らの生活を支える作 物までが要求される。村人たちの憤りは日に日に深くなっていく。そんなあ る日、噂を聞きつけた行商人が村を訪れる。これは南方の仏国から特別に仕 入れた、とっておきの薬なんですがね、こいつを一山、食べ物に混ぜて飲ま せるだけで、からだが痺れて、しまいにはどんな強靱なゾウの息の根すら止 めてしまうというですね……  ……    いつものように満腹でしあわせな食事をすませた夜、吹きこんでくる風を 感じて、ゲオルギイは瞳をひらいた。  真夜中すぎの暗闇のなか、その日はゲオルギイのほうが先に目覚めたよう だった。いつもは遊びたい気持ちをもてあましたアラベラに目玉をつつかれ て叩き起こされるのが常なのに、運がいいこともあるものだな、と思う。軽 く鼻先でつついてやると、アラベラは目をこすりながら起きあがる。 「おはようアラベラ、今日は高くまで飛べるぜ」とゲオルギイはいった。 「おはようゲオルギイ、わたし、なんだかとろんとした気持ち」とアラベラ は答えた。  今までみたこともない寝ぼけっぷりで、何度もすべっては転ぶアラベラを 馬鹿にしながら、ゲオルギイは洞窟から顔を出す。  そして突き刺さった激痛に身をよじった。苦悶に転がった視界の隅で、ゲ オルギイは木々の陰から弓や槍を手にした村人たちが、キイキイというあの 意味のない叫び声をあげて駆けだしてくるのを見た。 「能なしの、人間どもが!」  どうして鼻が利かなかった!?  尾を振り、群がってきた連中をなぎ払い、ゲオルギイはアラベラに叫ぶ。 「飛ぶぞ! つかまるんだ、アラベラ!」  二本目の矢が突き刺さり、ゲオルギイの胸から黒ワインのような血が吹い た。こみあげてくる不快感に舌が痺れる。アラベラはおぼつかない足どりで、 ゲオルギイの背中に登ろうとしてもがいている。ゲオルギイは尻尾で彼女を 背中まで持ち上げて、地面を蹴った。だが、いつの間にか後ろ足にかけられ ていた縄に引き戻されて、したたかに地面に叩きつけられた。 「だいじょうぶ、だいじょうぶなの? ゲオルギイ!」  ゲオルギイはアラベラに怒濤の咆哮で応え、ふたたび前足で地面をかいた。 悲鳴をあげて背中を見せた人間たちを、蟻のように踏みつぶす。縄を、引っ ぱっていた十数人ごと中空に跳ね上げ、そのまま体を風の流れに乗せる。  鼻柱にのしかかる重たい空気の壁をはねかえして、ゲオルギイは飛んだ。 「ようし、アラベラ、このまま月に連れて行ってやるぞ」  アラベラを乗せたまま、ゲオルギイはぐんぐん空へと昇っていった。気が つけば、もうあの耳障りな人間たちの鳴き声も聞こえなくなっていた。追い すがる矢も届かない。不思議なことに傷の痛みも麻痺したみたいに消えてい て、なんだかとてもいい気分だった。  ぎりぎりと揺れる空を、高みへ高みへと引き裂いてゆく。風が激流のよう に彼の体にぶつかっては、左右に分かれて流れていく。洞窟も森も人間たち の村も、眼下に過ぎ去り、点になり、あっという間に視界から消える。  耳もとで、アラベラのかすれた声だけがはっきりと聞こえる。彼女は小声 で、ふたりがくぐり抜けた雲の数を数えている。そうしてときどき、もう待 ちきれないという様子で、ゲオルギイにこう耳打ちするのだ。  まだかな、ゲオルギイ。  彼は答える、もうじきだよ、アラベラ。すると彼女がにっこりと微笑むの が分かる。  二十の雲を突き抜けたとき、アラベラが呟いた。  まだかな、ゲオルギイ。  もうじきだよ、アラベラ。  五十の雲を突き抜けたとき、アラベラが呟いた。  まだかな、ゲオルギイ。  もうじきだよ、アラベラ。  八十の雲を突き抜けたとき、アラベラが呟いた。  まだかな、ゲオルギイ。  もうじきだよ、アラベラ。  百の雲を突き抜けたとき、アラベラは突然静かになった。きっと疲れて眠 ってしまったのだろう。人間みたいだけど、小さくて、あたまのいいアラベ ラ。このちっぽけなアラベラは、目が覚めると月の上に立っていて、「ワー オ」と口元を押さえてくすくす笑うのだろうな。月の地表には、彼女が想像 するよりもずっとたくさんのぴかぴか光る宝石が転がっているのだ。それと 夢のようなごちそう。  ゲオルギイは昇り続けた。そのうちに、視界がかすみ、はっきりと先が見 えなくなった。翼が痺れて動かなくなり、目の前が洞窟のなかにいるみたい に真っ暗になった。  一瞬世界が止まった気がして、急に体が軽くなり、ゲオルギイは笑った。 きっと空を突き抜けたのだ。それならもうじきだ、もうじきだぞ、アラベラ。  ほら見ろ、いままであんなに遠くで輝いていた月が、どんどん近くにせま ってきている。朦朧と薄れゆく意識のなかで、ゲオルギイはいつもの歌を聴 いていた。  おまえは おおきな 罪を犯した  おまえの魂が 天へと昇る ことはない  だがおれたちは昇っている、おれたちは昇っている、目の前がぴかぴかと 輝き、視界が一面金色に染まるほどに月は眼前にあって、ゲオルギイは食い つくようないきおいで、最後の羽ばたきを振りしぼる。「アラベラ、月だ」  激しい水飛沫があがり、ゲオルギイは湖の底に突き刺さって死んだ。   (That's fall)