ラバーハンドラバー  ある日佐野ミカァが道をふらふらと歩いていたら、そいつとばったり出く わした。  そいつはミカァの不思議そうに見つめる視線の前でゆらゆらと揺れなが ら、こう言った。 「君が好きだ。愛してる、佐野ミカァ」  まあ、それは安直に分類してみれば愛の告白ってやつで、街角でいきなり というパターンは珍しいにしても、人類数万年の歴史に照らしてみればすっ かり手垢のついた台詞であるわけで、毎日のようにテレビのドラマが吐き出 している言葉であるわけで、佐野ミカァは自分がある日突然誰かに「愛して るよ」なんて言われても、それほど驚いたりはしないだろうと自負していた。  なのにその瞬間、ミカァは十五年の人生でかつてないほど、ぶったまげて しまった。  やむを得ない。  だってミカァに「愛している」と言ったそいつの姿は、  360度どこからどう見ても、  誰がなんと言おうと、  まったくどうしようもなく、   『手』だったのだから。    † 「佐野ミカァ、僕は君を愛してる」  と、そいつは再びそう言った。  ミカァは腰をかがめてまじまじとそいつの姿を眺めた。  それはやはり手だった。  彼は手以上でもなく、手以下でもなく、完結した純粋さでただひたすらに 手の姿をしていた。必要性を何一つ証明するまでもなく、高らかにその存在 を勝ち取って世界に君臨していた。  九月の雨上がりのアスファルトから、脈絡もなくにゅっと生えている肘か ら上。  それには目なんてついていなかったが、静止した五本の指からじっと見つ められているような気配を感じて、佐野ミカァはたじろいだ。 「あの……」  何か言おうとして、何を言えばいいのか分からないことに気がつく。  表情の見えない手と向かい合う沈黙に、ミカァは二秒しか耐えられなかっ た。 「ご、ごめんなさい!!」  ぶえんと頭を下げた。 「大変失礼ですけど――。わたし、あなたのご好意には、こたえられませ んっ」  ミカァがそういうと、手は表情の乏しい全身で、明らかに落胆した様子を あらわした。 「ああ……」  イソギンチャクみたいな動きで、ゆらゆらと哀愁の天を仰ぐ。 「えーと、それは要するに、僕は君にふられたってことかな?」 「そうなりますね」 「ああ……なんてことだ」  手はがくりとうなだれた。 「つまり君は、僕にこう言いたいわけだ、『ごめんなさい。お友達でいまし ょう』と」  手の言葉に、ミカァは否定するようにぶんぶんと手を振った。 「え? あの、いや……」 「……違うのかい? ふられたってことは、そういうことじゃないのかい?」  不思議そうな顔をする手に(顔なんてどこにもないが)、ミカァは慎重に言 葉を選んで答える。 「えーと、わたし的にはちょっと、『お友達』もできれば遠慮したいなーな んて思ったりして……」 「なにい!!」 「第一、わたしたちは今さっき(時間で言えば三分前)に出会ったばかりです し、それに――」  ミカァの歯切れの悪い語尾を、手は聞きとがめた。 「それに?」 「えーと、それにですね、えっと……」  ミカァは口篭もった。  その時、突然手が打たれたようにびくりと震えると、地面の中を這うよう な、低い声でこう言った。 「――もしかして、それは僕が『手』だからかい? 君が完全な人間で、僕 はただの手――それも両手のうちの片割れでしかないから、僕と君とは近し くはなれないのだと、君はそう思っているのかい?」  ミカァは少し考えてから、答えた。 「……まあ、ありていに言えばそうです」  あと、あなたのアピールは唐突過ぎです、とは胸中で付け加えておく。 「むう……」  手は重たいうめき声を漏らすと(口なんてどこにもないが)、困った様子で 頭をかいた。(頭なんてどこにもないが) 「でも僕はただの手じゃないんだぜ。自分でこういうのはなんだか少しいや らしいけど――僕はすごくいい手なんだ」 「どんな風に?」  ミカァは彼の姿をしげしげて見つめてみたが、それはやっぱりただの手に しか見えなかった。 「まず僕は、右手だから、お箸がもてる」  手は素早く指を握ると、箸を持つかたちを作って見せた。  ミカァは言った。 「でも左利きの人は左手でもお箸を持てるよ」 「僕は右手しかないから右利きなんだ。だから右でお箸を持つ」 「そうかもしれないけど、そんなの自慢になんないよ」 「……それもそうだ」  自分で言いながら気が付いたのか、手は少ししょぼくれた。 「でも他にもいろいろできるんだぜ。そんじょそこらの右手にはできないよ うなことをね」  気を取り直して、奮起する右手。 「たとえば?」 「例えば……、そう、僕はあやとりが大の得意だ!」 「…………」 「なんだいその目は! 僕はISFAにも認知されてるあやとり士なんだぞ !」 「ISFA?」 「国際あやとり協会さ。ISFAは当時早稲田大学の位相幾何学の教授だっ た野口広とフィリップ・ノーブルによって設立された『日本あやとり協会』 が拡大発展した組織で、1993年に本部がカリフォルニアに移ってからそ の活動はドイツ、フランスなど世界各国に、」 「いや、それはいいから」 「むう」  ミカァは右手の熱っぽい説明をさえぎって、言った。 「そうじゃなくて、右手一本でどうやってあやとりするの? 出来ないじゃ ない」 「……うっ」  黙りこむ右手。  重苦しい沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。 「…………それは盲点だった」 「あのねぇ」  ミカァはおなかに溜まった疲労感を嘆息と共に吐き出した。そして切り出 す。 「あのさ、悪いけどさ、わたし急いでるからもう行ってもいいかな? 本当 は、おかあさんにも知らない右手に声をかけられてもお話しちゃいけません って言われてるし」  と、適当に思いついた言い訳を並べ立てながら、ミカァは後ずさりしてそ の場を去ろうとした―― 「ま、待ってくれ、僕の話を聞いてくれ!!」  必死になった右手が、ミカァの足首をぐいと掴んだ。  ミカァは恐怖に駆られた。 「――っ!? 嫌ぁっ――!!」  反射的に動いたミカァの足が、右手をしたたかに蹴飛ばした。右手は鋭い 勢いで歩道の壁に叩きつけられ、衝突の瞬間、鈍い肉質の音が鳴った。  べしゃり。 「あ……、ごめ――」  我に返ったミカァは慌てて右手に駆け寄り――  そして驚愕した。 「!!」  彼女の見守る目の前で、手は、ゆっくりと溶けはじめていた。皮膚の表面 から茶色い半液状の泥になって、だんだんとかたちが崩れいく。  引きつったミカァの顔を見て、手は重い手を必死で動かし、安心させるよ うに言った。 「いや、いいんだ……。これは君のせいじゃない」  どろどろと、手首の下から彼の体は溶けていく。 「しかたないんだ。僕は君に受け入れてもらえなかった――。愛を拒絶され た。だから僕は崩れるしかないんだ。僕は手だからね。手は、スタンドアロ ンに存在してたら、やっぱり変だろう? 変なものはひとりで存在していけ ない。成り立たない。敵しか作れない。摂理も理性も根本ではイレギュラを 拒絶するんだ。変なものは『変でもいいよ』って、誰かに許してもらわなく ちゃ存在できないんだよ……」  どろどろ。 「そんなの変だよね? 変なのにね」  どろどろ。 「例えばドラえもん。ドラえもんにはドラえもんを受け入れてくれる街が必 要なんだ。商店街のおじさんが、突然現われたしゃがれ声のロボットにもわ けへだてなく笑顔でどら焼きを売ってくれる世界でしか、ドラえもんは生き られない。わかるかな? わかりにくいね。  ああ――とにかく僕は消えなきゃいけない」  どろどろ。 「君が悪く思う必要はないよ。君の受け止める相手は、もちろん君が選ぶん だ。その選択に誰も文句なんてつけられやしない――その結果、誰が傷つい ても。それにさ」  どろどろ。 「やっぱり君には、手が三本は多すぎる。うん。君の手は二本のほうがずっ と可愛い。だから僕がいるより、君はそのままがいいや」  どろどろどろ。 「君に愛して欲しかったけど――まあいいや」  手は。  とても切なげに、そう言って。 「溶けちゃう……」  ミカァは両眼を見開いてその光景を見ていた。  彼のからだはもう手首の付け根まで黒いアスファルトに沈んで、わずかに 残った五指だけが、自分が手だったことを証明するかのごとく短く折り曲が ったり、伸びたりを繰り返していた。  もうあとわずかで彼の存在は消え去ってしまう。  そのとき、手が悲しそうな瞳でミカァを見つめて、何かを言いたげな顔を した。もちろん瞳も顔も彼になかったが、ミカァは確かにそれを感じていた。  だからミカァはこう聞いた。 「なあに?」  手はしばらく何事かをためらっていた様子だったが、やがて恐る恐る口を 開いた。 「あのさ、佐野ミカァ……。もしも――もしもだよ」  どろどろどろどろ。 「もしいつの日か、君がもう一本右手が欲しくなったときは、そんな時が来 るとしたら、良かったら、そのときは僕を君の右手に選んでくれないかな… …?」  どろどろどろどろどろ。  佐野ミカァはうなずいた。 「……うん、いいよ。そのときは、あやとり教えてね」 「できないけどな」  手は笑った。 「やっぱ嘘だったんだ」  ミカァも笑った。  それからミカァは考えた。 「じゃ、約束しよう」 「約束?」 「うん。はい、これならあなたも出来るよね」  ミカァは握った拳を差し出して、小指をぴんと跳ね出した。  溶けてゆく手も、ぎこちなく時間をかけて、同じかたちを作ってみせた。  そしてゆっくりと、  ふたりの右手と右手、小指と小指が絡まって、  ふたりで同時に唄いだす。 「ゆーびきりげんまんー」 「ゆびきり…げんまん」 「うそついたら……はり……」 「はりせんぼん――」 「のま……」 「の――ま――す――っ!!」  ミカァが指を切ると、彼の小指は付け根からぼたりと崩れて地面に落ちた。  後を追うように残りの四本の指も流れて溶けて、最後は残った手のひらと 手首も、潰れた茶色い豆腐のように崩れて消えた。  ミカァはからっぽの手のひらの中をぎゅうっと強く握りこんで、しばらく アスファルトに染み込むようにして消えたどろどろの跡を見つめていたが、 やがて立ち上がり、唇をを噛み、歩き出し、早足になり、しまいには駆け出 してその場を立ち去った。 (That's all)