ヒトゴロシ  ○12月25日午後10時55分  ひどく寒い夜だった。氷あずきみたいな寒さだ。  僕は「むじな亭」の老いた扉をいつものように片手で押し開けて、外のひ んやりとした空気を肺の中に詰め込んだ。アーケードの下には、いろんな人 間の残り香が、水に溶けた絵の具のように混ざりあってたちこめていた。  もうほとんどの商店のシャッターは下りて、看板の灯は消えている。  ところどころにクリスマス・セールのチラシが散らばっている地面には、数 時間前まで大勢の足に踏みつけられていた舗装が、一安心した顔をしてまっ すぐ横たわっていた。  12月25日が暮れる。  クリスマスの一日が終わり、街は静かな眠りに就こうとしていた。僕は自 販機で買った缶臭いコーヒーを傾けながら、ゆっくりとした足取りで、がら んとした夜の空白の中を歩いていた。  人のいない商店街を歩くのが好きだった。  誰もいない商店街は、まるで、人々の心の中から何百年も忘れ去られてい た廃墟のような感じがする。  インカ、アステカ、アンコールワット。新北町商店街。  ○12月25日午後11時01分  片手でコーヒーの缶をもてあそびながら、僕はバイトの事を考えた。  「むじな亭」は、時給が十年前のままみたいに安いのと客があまり来ない のと外装が小汚いことを除けば、いいバイト先だった。少なくとも、主人は 頑固で腰痛持ちでコーヒーが美味い。僕が「むじな亭」でのバイトを決めた のは、他でもない美味いコーヒーのためだった。  ……おかげで生活は苦しいが。 (まさかいまさら仕送りを上げてくれとも、言えないしな)  そんなことを要求すれば、正月実家に下げて帰る顔がなくなるだろう。一 人暮らしだからといって好き勝手にやれるものではないと気がついたのは、 残念ながら下宿生活を始めてから四ヵ月後のことだった。食費に困り、捨て 値同然の死んだ目をした魚を買って――  みごとに当たった。ヒットだった。八月。夏の最中のことだ。丸々二日間、 便所で過ごしたあの苦しみは今でも決して忘れない。  あれからさらに四ヶ月。 なんだかんだとごたついている内に、クリスマスが終わろうとしている。 (まったく……、現実、見えてなかったかな……)  結局のところ、自由なんてものは四畳半で風呂なしのダニ臭い下宿部屋に は存在しないのだ。自由とは、もっと崇高な場所の崇高な信念に崇高に宿る 崇高な概念のことを言うのだろう。  くしゃくしゃと、頭をかく。  後悔がないといえば嘘だった。  別に意地を張ってわざわざ実家から遠い大学を受けなくともよかったのだ。  小さい頃は、タイムマシンが欲しかった。引出しの中にある、あれだ。  選択を誤りそうになった局面まで時間を遡って過去の自分を引き止めてや ることができれば、自分はきっと今よりましな人間になると信じていたのだ、 あの頃は。  それが大それた虚妄だと気づいたのも、やはり最近のことだが。 「……ん?」  ふと、コートのすそが引っ張られる感触に足を止める。  誰かが僕を引きとめた――? (……まさか、未来の自分?)  そんなわけない。  馬鹿げた妄想を頭の中から追い出して、僕は後ろを振り返った。  小魚みたいに小さな指が、僕のコートを掴んでいた。 「…………は?」  僕は唐突に背後に出現した意外な姿に、間の抜けた声を上げていた。  小さな指は小さな掌にくっついていた。小さな掌は小さな腕にくっついて いた。  そして小さな腕は、小さな女の子の身体につながっていた。 (女の子?)  女の子だ。小学生くらいの。  はねっかえりの癖毛の、白いセーターの少女が、僕の服の裾をきゅっとつ まんで、何かを訴えかけるような瞳でじっとこちらを凝視していた。 「……どうしたの?」  とりあえず、聞いてみたが。 「…………」  返事はなかった。  少女は無言で――でも、ものすごく何かを言いたげに――くたびれたコー トの裾を握り締めていた。 「……僕に、何か用?」  と、僕は聞いた。 「…………」  こくん。少女が頷いた。  そして再び沈黙。 「………………」  沈黙。 「………………」  夜より深い沈黙。 (なんなんだ……? これは……)  押し入れよりも静かな女の子と向かい合いながら、僕は妙な気分に襲われ ていた。  違う空気、違う世界に迷い込んでしまったような。  夜更けの商店街。無人。変な少女。クリスマス(残り一時間)。タイムマシ ーン。どうも僕は、どこかしら奇妙な夜の素材たちが作り上げた、どこかし ら奇妙な夜の中に放り出されてしまったようだった。 「あ、もしかして――」  僕は空想を打ち払って、現実的な意見を搾り出した。 「君、お母さんとかとはぐれたんだろ?」  今日はクリスマス・セールで商店街は一日混雑していた。  ごったがえした人の波の中で保護者とはぐれ、どこに行けばいいのか分か らなくなった少女はじっと迎えを待ってその場に留まっていた。そこへバイ ト帰りの僕が通りかかった、と……  恐らく、そんなトコロだろうか? 「あ……うん」  少し驚いたような顔で、少女が頷いた。やはりだ。よかった。ここは異世 界じゃない。 「お母さん、お父さん……はぐれちゃったよ、ずっと前に」  ぽつり、ぽつりと。女の子は澄んだ声をしていた。 (……良かった。喋れるんだ)  僕は少し、変な安心をしていた。 「名前は?」  と、僕は聞いてみた。 「……わたし?」 「しかいないだろ?」 「……ミエ」 「みえ?」 「うん。霧島ミエ」  キリシマミエ?  き、り、し、ま、み、え。  なんだか奇妙によく響く名前だった。12月25日の夜11時のためだけに、 特別にあつらえられたような名前だ。その名前は、それほどまでにこの奇妙 な夜にしっくりきていた。  もしかしたら神様が―― 「あー……。じゃ、とりあえず行くべきは交番かな? 名前が分かってるなら、 大丈夫だろ。もう届出が出てるかもしれないし」  僕はそう言って、またもや非現実の海岸に乗り上げかけていた自分の思考 回路を、無理矢理現実モードへと引き戻した。やれやれまったく、世話のか かる脳味噌である。 「じゃ、行こうか。交番はすぐそこだよ」  僕は女の子――キリシマミエの小さい腕をとって、歩き出す。 「あ……」  聖夜の夜に人助けなんてのも、考えてみればなかなか粋な行いだ。僕のい い子っぷりを見て感激したサンタクロースが、プレゼントをくれるかもしれ ない。朝、目が覚めたら枕元にリボンで綺麗に包装された『自由』が。  ……相変らず馬鹿な事ばっかり考えてるな僕は。だから付き合った女の子 にもすぐに愛想をつかされるんだ。そう、 あれは確か高二の時だったか―― 「待って……」 「えーと、確か交番って二十四時間開いてるよな? あ、でも今日はクリスマ スだから……って関係ないか」 「待ってってば」 「え?」  と、僕はそこでやっと少女の足が、僕らが歩き出してから全く動いていな いことに気がついた。  ……では何故彼女は前へと進めているのだろうか?  答えは簡単だった。彼女が宙に浮いていた――わけではない。  僕が勝手に彼女を引きずっていたのだ。ずるずると。お婆さんがローラー 付きの買い物かごを引っ張っていくみたいに。  僕は立ち止まって、少女の手を離した。 「あるけないの?」  まさかと思って聞いてみる。 「あるけるよ」 「じゃあ交番に行かなきゃ。分かるだろ? こんなトコにいても、もう誰も通 らないぜ」  言い聞かせて、僕は再び彼女の手を取ろうとしたが―― 「でもわたし……迷子じゃないもん……」 「……なに?」  四回の裏、予想外の展開。 「迷子じゃないのか?」 「じゃないの」  少女はひかえめな仕草で、首を縦に振った。肯定。 「頼みがあるの」  と、彼女は言った。 「頼み? 僕に?」  僕は自分で自分を指差して声を上げた。  頼みがあるだって?  夜中の商店街で見ず知らずの大学生を引きとめて、一体何を頼もうという のだ? 「えーと……僕に頼みがあるって?」  確認のため、もう一度問い返す。  女の子は僕の言葉にこくりとひとつ頷いて――  そして言った。 「あのね。ちょっとてつだってほしいの。ヒトゴロシ」  ――――。 「は?」  まず、幻聴だと思った。 「……はあ?」  聞こえてきた言葉は、僕の理解を圧倒的なスケールで超えていた。例える ならば、観覧車の中にナウマン象を詰め込んだみたいに。 「ひと…………?」  脳味噌の情報処理が遅れている。これは僕のせいじゃない。  ヒ・ト・ゴ・ロ・シ?  僕の思考は地球を七周半回転ほどの回り道を経て、ようやくその単語の示 す意味にたどり着いた。  だが結局のところそれは、クリスマスの夜に静まりかえった商店街でいた いけな少女が口にするべき単語とは、まったくもってかけはなれた位置に属 している単語であった。 「人殺し?」  僕がやっとのことで口に出したその言葉に、少女は至極真面目な顔で首肯 した。 「うん。ヒトゴロシ」  じっと、無垢な瞳が僕を見つめていた。くりくりして、大きな目だ。  人殺し?  僕は混乱していた。 「うんって……意味を分かって言っているのか? 君はいったい――」 「……きて。こっち」  突然少女が前方を指差して、駆け出した。 「なっ……!」  僕は慌てて後を追っていた。  追わなくても良かったのかもしれない。追わない方か良かったのかもしれ ない。  でも実際問題僕のからだはその時彼女を確かに追いかけていたのだし、そ れが僕の――反射的なものだったにせよ――選択だったのだ。一度選んだ選 択肢は、タイムマシンでもやり直せない。いいね?  少女はまっすぐに駆けた。僕も走った。後ろに、僕の理解だけをぽつんと 置いてきぼりにして。  やがて、商店街を抜ける。  頭上を覆っていたアーケードがなくなると、デキストリンじみた夜の暗さ が舞い降りてきて、僕の顔面にべっとりと張り付いた。 「こっち」  少女――キリシマミエは立ち止まって振り返り、暗い曲がり角を指で示す と、再びうさぎように走り出した。その小さな白いセーターの背中を見失わ ないように視界の中に捕らえながら、僕は悟っていた。  残念ながら、これは確かに奇妙な夜だったのだ。空想ではなく現実に。  ああ、僕は今産まれて初めて、現実が恋しい。  夜は。  奇妙なものが奇妙なものなりにゴスペルみたいに調和した、そんな色をし ていた。  ○12月25日午後11時39分  キリシマミエが立ち止まったのは、僕のからだがそろそろ止まるという行 為を忘れてしまいそうな頃合だった。  腕時計に目を落とすと、時刻は午後11時39分。  僕達は、なんと三十分以上も走り続けていたことになる。やれやれだ。こ んなに走ったのは、去年坂道で落っことした十円玉を追いかけて走った時以 来である。おまけに、少女の足は風のように速かった。僕がどんなに頑張っ て奴隷的に僕自身の足を酷使しても、一度足りとも彼女に追いつくことはか なわなかった。それどころか、彼女はわざと僕が遅れないように速度を調節 しながら走っていたような気すらあった。  まったく、この女の子は一体何者なのだろう? 未来の金メダリスト候補 なのは間違いないが。 「ここだよ」  キリシマミエが、僕のほうを振り向いて言った。 「ここって……、ここ?」  僕は、自分の足元を指差して聞いた。 「……そう。ここ」  少女はこくりと頷いた。  僕達が立っているのは、割に新しい一戸建てが立ち並ぶ、閑静な住宅街の 一角だった。もちろんこんな時間に、僕らの他に人影はない。  ここがどうしたというのだろう?  僕がなすすべなく顔に疑問符を浮かべていると、少女は、ちょうど目の前 にある、一軒の家を指差した。  言った。 「このうちの子を、コロすの」  さらりと言った。 「だから――」  落ち着け、僕。自分に言い聞かせる。昔、小学校の先生が言っていた言葉 を思い出す。  分からない事があったら、何でも遠慮せずに先生に質問してくださいね。  とっさに横目で辺りを探るが、先生らしき人物は何処にもいなかった。当 たり前だが。  残念なことに、分からないことというのは、往々にして学校の外で起こる ものなのだ。 「だから、その、人殺しっていうのは、どういうことだい?」  我ながらあまり上等な問いかけとは思えなかったが、こんなものが僕には 精一杯に考えた挙句の台詞だった。もうちょっとましな質問ができたんじゃ ないかなんて言わないで欲しい。この場にいない先生方が悪い。すべて教育 委員会が悪いのだ。  ともあれ、僕は問いかけを口にして、少女の答えを待った。  当の少女はというと、僕の足りない脳細胞を総動員して捻り出した質問な ど、まるで聞こえていないかのように意に介さず黙りこくっている。  まさか本当に聞こえなかったのだろうかと僕が訝り出したとき、彼女は小 さく呟いた。 「おにいちゃんは……、サンタさん、信じる?」  唐突に、話がぶっ飛んだ。 「……サンタクロース?」  またもや意味不明な一撃ではあったが、僕はそろそろこの夜の意味不明さ に慣れつつあった。自慢じゃないが、僕は人間だ。環境適応力の高さには生 物学的な裏付けがある。  僕は即座に肯定した。 「うん」 「……信じる?」  念を押すように、聞き返してくる少女。 「信じるよ」  もちろんさ、と僕は胸を張る。これは自信を持ってイエスと言える。  とはいえ――  僕がサンタクロースを信じている――というのは、正確な表現ではないの かもしれない。  僕は、正しくは、サンタクロースにどうか存在していて欲しいと願ってい るのだと思う。 (いい子にしてたら、サンタさんがプレゼントをくれるよ)  絶対的な善は、必ずいつかどこかで誰かに認められているんだと、せめて 希望だけでも持っていてもいいではないか。  ただでさえ僕達は、聖なるエゴでビルを爆破したり、右の頬を殴ってきた 相手を爆弾で吹き飛ばしたりしている連中にうんざりしているのだ。人はど こまで進化すれば隣人を愛せるようになるのだろうか?  だから僕は日々強く祈っている。二十歳を目前に迎えてなお、サンタさん がいたらいいなぁと祈っている。完全無宗教無差別無主義の愛を背負った、 そして気前のいいサンタクロースの存在を。  我思う、故にサンタ在り、である。 「……信じてるんだね、サンタさん」  少女の顔に貼りついた無表情が、少しだけ安心したように見えた。 「あのね」  そう言って、キリシマミエは僕を見上げた。森の中の暗い湖のように深く て静かな、大きな二つの瞳で僕を見つめた。 向かいの家の門灯が、僕達を横からぼんやりと照らして、暗闇の中に曖昧 な二つの影を浮かび上がらせていた。どこかから夜の風に乗って聞こえてく るパーティの喧騒は微かで、まるで、別世界から聞こえてくるように遠くて ――全てが夢のようで。  11時42分。クリスマスは、もうすぐ終わる。 「これからするの、だいじな話し……」  キリシマミエは言った。  僕には分かった。彼女は僕に、深刻な何かを伝えようとしている。  小さな手でセーターの裾をぎゅっと握って、一生懸命に、彼女にとって一 番大切な何かを伝えようとしているのだ。 「わたし、いまから、ヒトゴロシをするの」  彼女は言った。  僕は黙って聞いている。 「……わたしはね、わたしをコロすの」  クリスマスは、もうすぐ終わる。   ○去年のクリスマス  わたしは、ね。  去年のクリスマスにしんだの。痛くなかったよ。  わたしが悪いんだ。  おかあさんが買ってくれたプレゼントがすごくすごく嬉しくて。  はしゃいで、  はやくおうちにかえりたくて、  おおきなプレゼントをかかえて、  まえもみずに走って、  道路をわたろうとして、  おかあさんの叫ぶこえがきこえて……  そこから先は覚えてないの。  でも、次に気がついたとき、わたししんでた。  ……知ってた? しんでもね、どこにもいけないんだよ。天国も、じごく もないの。  あると思ってたけど、なかったの。残念だったよ。ぜったい、天使さんの わっかに触ってやるって、わたし思ってたのに。  それでね。わたし、いくとこないから、ずっとおとうさんとおかあさんを 見ていたの。  おとうさんとおかあさん、ずっと泣いてた。  毎晩毎晩、わたしの名前を呼んで泣いてた。  おとうさんとおかあさんも、わたしのことで泣いてくれてるのに。  わたしはなにも言えないの。わたしがなにを言っても届かないの。  わたしの声は届かないのに。わたしには、おとうさんとおかあさんの、泣 いてる声は聞こえるの。  不公平だって思った。そんなのないって思った。  わたしは悲しくて、おとうさんとおかあさんが泣いてるのが悲しくて、泣 かないでって言いたくて、大丈夫だよって言いたくて、  でも、わたしには何もできなくて。 「……そしたらね。わたし、サンタさんに会えたの」  ぽつりぽつりと紡ぎ出される少女の話は、とりとめもなく、非現実的で、 だが紛れもない真実味を帯びていた。奇妙な夜の物理法則が認めた、奇妙な 真実味だ。 「今日のこと。サンタさんがわたしのところに来て、言ったの。『一年間ず っと、よく頑張ったね』って。『今日はクリスマスだから、一年間いい子に していた君に、私からクリスマスプレゼントをあげよう』って。『何でも、 好きなものを言ってごらん』って」 「……それで君は、サンタさんからクリスマスプレゼントを貰ったわけだ」  少女はそうだと頷いた。もらったよ。 「君は、サンタさんから何を貰ったんだい?」  僕がそう聞くと、少女は待ってましたとばかりに小さな胸を張った。 「あのね、わたしはサンタさんから魔法のちからをもらったの」  少女が嬉しそうに笑った。それは、紛れもなく、自分が貰った、素敵なプ レゼントを自慢する子供の笑顔だった。 「すごい魔法なんだよ。あのね――」  ○12月25日午後11時59分 「おかあさんと、おとうさんの頭の中から、わたしの記憶を消す魔法」  ――――。  僕は、目の前が暗くなる錯覚に襲われた。いや、錯覚ではなく本当に、僕 の体内の血液が逆流して、スクランブルな貧血を引き起こしたのかもしれな い。  この子が願っているのは、つまり…… 「この魔法をかけたらね、二人とも、わたしがいたことなんて、すっかり忘 れてくれるの。二人とも、わたしの事をきれいに忘れて、ずうっと笑ってい られるの。すごいでしょ? すごいんだよ」  少女は笑っていた。 「君は――、」  本当に、  それで、  僕は言うべき言葉に詰まる。 「……でも、わたし、失敗しちゃったの」  と――。  キリシマミエは、突然かくんと肩を落とした。 「なに?」  僕が唖然として見ている前で、彼女はとてとてと数歩歩いて、先程彼女が 指差していた家の門の前に立った。  キリシマミエは片手をう――んと精一杯伸ばし、眉根を寄せて、困った顔 で僕を見て、言った。 「インターフォンに、手が届かないの」  笑ってしまった。笑うまいとは思ったのだが。  彼女の秘めているとんでもない覚悟と、幼さのギャップがどうしようもな く純粋で、奇妙だった。そして悲しかった。 綺麗な奇妙さは、いつも悲しい色になる。僕はそれを知っている。  だから僕は笑った。笑った後でこう言った。 「……だから僕の手伝いがいるわけか。僕に、インターフォンを押してくれ、 と。インターフォンを押して、君のおとうさんとおかあさんを呼び出してく れ、というわけだね」  深刻な顔で、頷く彼女。 「はやくしないとだめなの。わたしの魔法は、クリスマスの間だけだから」  僕は時計を見る。11時51分。  確かに、クリスマスはもうすぐ終わる。 「クリスマスが終わると魔法のちからもなくなるし、わたしの姿も、また誰 にも見えなくなっちゃうの。わたしの声も、また誰にも聞こえなくなっちゃ うの。だから、はやく、おねがい」  必死で僕に訴えかけてくる少女。  そのお願いに答えるのは簡単だ。ただ目の前の家の、インターフォンのボ タンを押せばいい。指一本で済む。それだけで僕は彼女を長い悲しみから解 き放つことが出来る。  だが――。  そのお願いが、僕は、嫌だった。  僕は「霧島」と書かれた表札の横にあるインターフォンのボタンに手をか けて、だが押さず、振り返ってキリシマミエと向き合った。 「……生きていたいってお願いは、駄目だったのかい?」  僕がそう言うと、キリシマミエは眉根を寄せてこう言った。 「だって、死んだひとが生き返ったりしたら、気持ち悪いもん」  なるほど、違いない。僕は苦笑する。 「人は二度死ぬ――」  と、僕は呟いた。どこかで誰かが言っていた、ありがちな台詞。 「一度は心臓が止まった時。二度目は生きている人に忘れられた時」  なかなか格好いい台詞。 「最近は脳死ってのもあるけどね」 「のうし?」 「いや、いいんだ蛇足だった気にしないでくれ」 「だそく?」 「大人になれば分かるよ」 「わたしなれないし」  無駄話をしている時間はない。もう11時は54分を過ぎた。 「押してください、インターフォン」  夜の空気みたいにきっぱりとした口調で、キリシマミエは僕に言った。 「…………」  僕は考えた。自分の中で、このいい加減な脳味噌で、必死で考えた。 「おねがい。じかんがないの」  11時55分。クリスマスはもうすぐ終わる。  そして僕は、一つの結論に辿り着いていた。  僕は言い放つ。 「――嫌だ。君が何と言おうと、僕は君の魔法が嫌いだ」 「……どうして!?」  キリシマミエが、悲鳴じみた叫び声をあげた。  僕は言う。正直に、思うままを口にする。 「嫌いと言ったら嫌いなんだ。僕は屁理屈屋で、大学生で、下痢で、バイト 代が安い人間だけれど、嫌いなものは誰が何と言っても譲らない。この世に やりなおしなんて利かないし、利いちゃいけないんだ、どんなことがあって もね」  11時56分。 「君にこんなことを言っても分からないだろうけど……、僕は一年浪人して る。浪人生活なんておおかた無駄ばかりだったけれど、だけど、一年あれば 誰だってひとつくらい何かを学ぶことはできるものなんだ。いいかい? 僕 が学んだことはこれだ」 「そんなこと知らないもん!! この魔法はサンタさんがくれたんだもん! ! わたしがいい子にしてたから。サンタさんがくれた魔法なんだもん!!」 「例えそれがサンタさんの力でも、ドラえもんの力でも、終わったことをや り直すなんて、僕は、絶対に、許せない」  11時57分。 「ばかばかばかっ!! それじゃあおとうさんも、おかあさんも、ずっと泣 いてるままじゃない!! そんなの駄目なの、そんなの――」 「君のお父さんとお母さんは、自分の眼で泣いているんだ。それを止めてい いのは君じゃない。それは君のお父さんとお母さんが、自分で止めるものな んだ。自分で選ぶものなんだ。誰にだって、君にだって、止めちゃいけない んだ」 「――――――!!」  世界に、12月25日の11時58分が訪れた。と同時―― 「僕たちに出来ることは、これだ」  そう言い放ち、僕は、後ろ手で霧島家のインターフォンを押していた。  ミエの顔に強烈な驚きが走る。 『――はい、どちら様……?』  くたびれた、女性の声。僕はインターフォンには答えない。 「おかあさ――」  言いかけたミエの口をふさぐ。腕の中で暴れるミエを僕は離さない。 『……?』  怪訝そうな気配を残して、インターフォンがぶつりと切れる。  少しの間。  腕時計が11時59分を刻んだ。  間に合え――僕は祈る。  やがて、玄関口からがちゃりと鍵の開く音。ミエが僕の腕の中から飛び出 そうともがき噛みつき、それでも僕はがっしりと彼女を掴んでいて、ドアの 隙間からのぞいた女性の目が驚愕に見開かれ、ミエを抱き上げて、高らかに 掲げ、僕は力の限りに叫んだ。 「安心しろ!! キリシマミエは、元気で死んでるぞぉぉ―――――――― ―――!!」  ○12月26日  ――。  ……カチリ。  時計の針が0時を指した。  こうして12月25日の、なんだか奇妙なクリスマスの日は終わった。  『ヒトは二度死ぬんだよ』と誰かが言った。  そんなことないと僕は思う。  誰にも、誰かを完全にコロすことなんてできやしないし、そんなことをし ていい権利だってありゃあしないんだ。誰にだって、絶対に。  ヒトはどんなに嫌なことがあっても、忘れたいことがあっても、大学に落 ちても、下痢便を垂れても、大切な誰かが死んでしまっても、やってしまっ た失敗を後悔しながら、もさもさ生きていく他にない。  そして僕は、そんなもさもさした生き方が結構好きだ――  ――とまあ、そんな事を考えながら。 「…………」  両手を万歳して、何もない空間を掴んでいる僕。 「…………」  そんな僕を勃然と見つめる、見ず知らずのおばさん。 (……ええっと)  OK、認めよう。  僕は今、最高に気まずいぜ。 (Merry Christmas!)