カタナ(語り部のマシュウ#01)  それは、ぼくがまだ子猫だった頃のおはなし。                †  長いことグリーンズ一帯を仕切っていた時計屋ねこのタウンゼンド親分が、 マタタビでラリって中毒に堕ちた。  とたんに、十二本ある裏路地は、まとめて縄張り争いの修羅場と化した。  特にグリーンズ・セントパークを囲む三本のストリートはやばかった。                ●  それまでタウンゼンドの睨みに屈してそれぞれのブロックにおとなしくお さまっていた三家のねこギャングたちが、実り多き公園の覇権を巡って昼夜 を問わず熾烈な抗争を開始したのだ。  抗争には血も涙もなかった。ネズミの涙ほどの容赦もなかった。路地っ子 のあいだでは、『元天国(ヘヴン)』と言えばセントパークのことだと通じる ようになり、事情を知らないばかなよそものがうっかりストリートの角を曲 がるたび、次の朝には綺麗に折りたたまれたねこの死体が、ネズミの巣穴の 中から発見された。                ●  タウンゼンド以前からグリーンズに棲みついていた古参の貴族ねこ『ビア トリクス一族』の、舶来ねこに対する理不尽な憎悪と徹底した迫害や、計算 高く、何かとやり口の狡猾な『スクルージー協会』の権謀術数も恐ろしかっ た。  でも、グリーンズのねこたちを心底震え上がらせたのは、なんといっても カタナだった。                ●  カタナはオスで、赤黒い毛皮をしたトラ猫で、公園周辺区の西側に陣を張 る、アメリカン・ギャング『ミッキー&シンデレラ一家』に雇われていた、 最強無比の殺し屋だった。  みんなはカタナに『日本猫(ジャパーニャ)』という二つ名をつけた。  カタナが本当に日本のねこだったのかどうかは、さだかではない。  でも、ある日突然貨物船に乗ってグリーンズに現れた死神のようなこのね こは、『M&S』に雇われるやいなや、長く鋭い左足の爪でファミリーに仇 なすねこたちの胸ぐらを次から次へと切り裂いていった。  彼が仕事をしくじることは一度として無かった。  どんなに名のあるつわねこも、彼に命を狙われたが最期、次の朝日を拝め なかった。  彼には名前が無かったが、彼の爪には名前が付いた。  カタナ。  やがて気づけば、誰もが彼そのひとを、その名で呼ぶようになっていた。                ●  カタナがくたばるしばらく前に、ぼくはカタナと遇っている。                ●  その頃、ぼくはまだ半分くらいグリーンズではよそものだった。  初めての街というのは大変だ。いろいろと馴染めないルールが多いし、道 順はうろ覚えだし、なによりグリーンズではぼくが棲みついて早々にギャン グたちの抗争がはじまったので、食べ物の調達が特別に困難だった。    その日は真夜中まで残飯のかけらも見つからなくて、とうとうぼくは一度 も訪れたことのないストリートに入り込んだ。そこでようやく見つけたちっ ぽけなゴミ箱に鼻先を突っ込んだ瞬間、ぼくの背後に一匹のねこが現れた。  そいつの体からはゴミ箱に強く染みついていた臭いと同じ臭いがしていて、 ぼくはそいつの餌場を荒らしてしまったのだと気がついた。 「構わねぇよ」とそいつは言った。「喰えよ」  ぼくは振り向き、そしてひと目で分かった。  それはカタナだった。  トラ縞の毛皮も、腿の部分から千切れてぶら下がっている右の前足も、目 やにでごてごてに膨れ上がった左目も、そして不自然に傾斜した彼の体躯を 支える左足と、そこから伸びた鋭い爪も。  全部が噂に聞く通りのカタナだった。  でも、ぼくは信じられなかったのだ。だって、そこは、ストリートじゅう にその名を轟かすカタナの餌場にしては、あまりにちっぽけでうらぶれてい たから。「構わねぇで喰えって言ってんだろう。オレは腹なんて減っちゃあ いないんだ。最近は何を喰っても、半刻と保たずに糞になって流れちまう」  カタナはそう言うと、自分からゴミ箱に潜り込み、牛のアブラミをつまみ 出して、ぼくに投げてよこした。アブラミは古くなっていてべたべたに溶け かかっていたけれど、おいしかった。ぼくは鼻面でつつくようにして一心に それを舐めた。 「小僧、てめぇ、名は何てんだ」とカタナは言った。  マシュウ。とぼくは答えた。 「マシュウ」と彼は言った。「てめぇは、なんで、エリマキなんかしてやが るんだ?」  これはエリマキじゃないよ。アブラミと格闘しながら、ぼくは答える。こ れはマフラーっていうんだ。親友から預かったんだ。 「ふぅん。なんだってかまやしないが、エリマキなんてネコのするもんじゃ ねぇだろう。小僧、お前は妙なガキだな」  そう言うと、カタナはぼくの隣に尻を下ろした。  彼はぼくを眺めてけたけたと笑ったのだが、それはほとんど痙攣している みたいに見えた。 「ハ、ハ、ハ。まったく、この国は妙なことだらけで参っちまうぜ。小僧は エリマキをしてるし、ネコがネコとつるんで、ネズミも捕らずに殺しあって るときたもんだ。小僧、お前はネズミを捕ったことがあるか?」  ある、とぼくは答えようとした。  でもカタナは、ぼくの返事を待たずに首を振って一人で続けた。  その時ぼくは気がついた。カタナには、はなからぼくと会話をしているつ もりなんてなかったのだ。彼の言葉は一見ぼくに向けられているみたいだっ たが、そうではなかった。彼が話しかけている相手なんて、ぼくじゃなくて このゴミ箱だって言っても変わりはないのだ。 「この国のネズミなんて、ネズミとは呼べねぇよ。この国にいるやつときた ら、まともな色をしちゃいない。肉は臭くて鼻が曲がる。ここにいるのは狩 る価値もない、灰色のゴキブリばかりさ」  カタナは喋り続けた。 「オレは祖国で沢山のネズミを捕った。それがオレの誇りだった。貨物船に もネズミ捕りとして積まれた。船にはやっかいなネズミどもが巣を張ってい たが、オレはそれを一匹残らず引き裂いて殺した。船乗りたちに褒められ、 可愛がられて、オレは誇らしかった。そして港に着いたら、オレは用無しに なって捨てられたというわけさ」  彼の笑いは発作のように全身に広がり、カタナは毛を粟立てて一層激しく けたけたと笑い続けながら、ぼくに向かってその爪を振り上げた。  彼の爪は僕の頭上を通り過ぎた。  ぼくの背後の壁には『正』という記号がぴったり十個、水平に並んでいた。  カタナの爪は、その右端に新たな傷を一本刻んだ。 「オレのいた国では、こうやって数を数えるクセがあるんだ」  カタナはがりがりにやせ細った隻腕で目やにをこすって、自分でつけた壁 の傷を眺めた。  彼の視線は壁の向こうに突き抜けて、遥か遠くを彷徨っているみたいにも 見えた。 「オレがこれまでに殺したネズミの数は五十九匹だ。オレは船の中でこうや って忘れないように印を刻んで、そいつをずっと数えてきた」  身を震わせ、まるで泣いているかのように笑いさざめき、それでもカタナ は十個の印と一本の刻印から決して目を離さなかった。 「でもな、ほら、見ろよ。こいつが、この街に来てからオレが殺したネコど もの数だ。今晩も一匹殺っちまった。ハ、ハ、ハ」  そうしてたった一瞬だけ、ぱたりと笑いを途切れさせ、カタナはこうつぶ やいたのだ。 「こいつが五十九の線を越えたとき、オレは正真正銘のネコ殺しになっちま う気がするよ」                ●  それから一ヶ月ほど経った日の朝、六番街の路地裏で、喉笛を裂かれて死 んでいるカタナが見つかった。  大人たちの噂に耳をそば立てて聞いたところ、どうやら殺しをしくじった のだという。殺すはずだった標的に、返り討ちにあって殺されたのだという。  カタナの腕から考えれば、たとえヒゲを切り落として挑んでも失敗するは ずのない、つまらない仕事だったのだという。  ぼくはカタナと遇った日の路地に走って、壁に刻まれた印をたしかめた。                ●          正正正正正正正正正正正下                ●  当のカタナを殺ったというごろつき(でぶのスケーターという、スクルージ ーのとこのくず)は、一躍ワルねこたちの間でヒーローになり、我が物顔で路 地裏中を闊歩した。  でも、その三日後には、どこかの夜道で別のあらくれにあっさりやられて しまったということだ。  それだけの、おはなし。                †  さて、今日はあんまり時間がないもんで、こんなところで勘弁してくれ。  分けてくれた御飯はおいしかったよ、ごちそうさま。  ぼくの名前はマシュウ、語り部ねこのマシュウだ。  またぼくの話を聞きたくなったら、グリーンズの路地裏で、てきとうなね こをつかまえて「マシュウは何処だ?」って聞いておくれ。きっと誰かが教 えてくれるはずさ。  万が一、そいつがマシュウって名前におぼえがなくても、『マフラーをし たねこ』って言えば大丈夫さ。自慢じゃないけどそんな変なやつ、ぼく以外 にそうそういるもんじゃないからね。  それじゃあ、ぼくは、そろそろいくよ。  縁が会ったらまた会おう。  縁がなくても、手土産があるならまたおいで。  この街で生きたり死んだりした、ねこたちの話を聞かせてあげるよ。  じゃあね。  ばいばい。  お元気で。 (That's all)