みっちー[MICCHAN I LOVE YOU!]   1  みっちゃんの話をしようと思う。  僕はみっちゃんの事をよく知っている。    †  僕の身長がまだ東京タワーの三百分の一くらいだった頃、隣の家にひとり の女の子が住んでいた。名前を、前田みちと言った。僕がいまだに彼女の思 い出をこんなにも鮮明に記憶している理由のひとつは、彼女の言動がいちい ち不可思議なものだったからだ。不可思議というか常軌を逸していた。むし ろ化け物じみていた。  ちょこんと座って遠くを見つめでもしていればいいのだ。そうすれば、ち っちゃい子を愛でる趣味のあるお兄さん方に誘拐されそうなくらいに可憐な 容姿をしていたというのに、彼女ときたら年に二、三回しか座らなかった。 食べる時でも立っていた。授業中は廊下に立っていた。たまに座れば屁をこ いた。おまけにこの前田みちというやつは、とにかく声がでかかった。彼女 の台詞はスピーカーを通さずに校内放送になった。自分のことを恥ずかしげ もなく『俺』と呼んだ。一年生を泣かすのが上手かった。六年生を泣かすの はもっと上手かった。  放課後の公園、悪趣味な赤い色をしたジャングルジムのてっぺんに赤い夕 日が突き刺さる時間帯、スカートの下から半分に切ったジーパンを生やして、 彼女は雄叫びを上げながらグラウンドを駆け回った。風が吹くたび色素の薄 い髪の毛がさらさらと流れ、浮かんでは揺れ、揺れては浮かび、今にも夕日 に溶けそうに見えた。彼女の体は太くない。だけど冬の朝に張った弓の弦み たいにしなやかで強いのだ。つやつやとした仔馬のように走りながら、いち ご大福の中のいちごみたいに頬を赤く輝かせながら、彼女は決まっていつも 何事かを叫んだ。大抵そんな台詞に脈絡はない。その時々の気分によせて、 彼女は心の琴線に触れた言葉を解放した。たとえば、彼女は大声で「おなら ――――!!」とか「みそ――――!!」とか「へそ――――!!」とか叫 んだ。 「みっちゃん、おならって叫ぶのはやめといた方がいいと思うよ」  と僕がたしなめると、彼女は、 「ばかやろう、おならこかなきゃ死んじまうんだぞ」  と答えた。  僕は彼女を『みっちゃん』と呼んだ。同級生の中で彼女をそう呼んでいた のは、僕の記憶によると、僕ひとりだけだったような気がする。男子は彼女 を『マエダ』と呼んだし、女子が彼女に声をかけることはまずなかった。上 級生からは『二年のバット女』と噂されていた。みっちゃんがいつも自慢の バットをぶら下げて歩いていたからだ。それは七歳の誕生日に(自分で)自分 に贈ったプレゼントで、本人曰く「折れにくくて折りやすい」最強のバット だという。何を『折りやすい』のかは知らない方がいい気がしたので聞かな かった。  僕と彼女は、何の因果か幼馴染だった。生まれたときから互いが互いの側 にいた。  みっちゃんと僕はほとんど両極端な性格をしていたと言っていい。僕はヤ クルトを一度に一本しか飲まないありふれた子供だったが、彼女は、「こん なトカゲの小便みたいな量で、足りるか!!」と豪語して、十本まとめてコ ップに空けて、腰に手を当ててぐびぐび飲み干す小学生だった。そんな小学 生はそういない。  けれど、地球の北極と南極の風景がどこか似ているみたいに、僕らは何故 だか気が合った。彼女は彼女の心の中にシロクマを飼い、僕は僕の中にペン ギンを飼った。時折彼女のシロクマが僕のところに遊びに来たり、僕のペン ギンが彼女の部屋に泊まりこむことが、当時の僕らの間ではすごく自然に行 われていた。  そういう風に、僕らは仲が良かったのだ。    2  春なんて居眠りの間に見る夢みたいにすぐ醒めて、近頃はずっと雨続き。 監獄みたいな予備校からの帰り道、僕は一人で駅に向かっていた。曲がった 傘にすがりついて、ちょっとでも濡れないようにと歩いていた。  歩道の真ん中で猫が死んでいた。シュークリームみたいなはらわたが路面 に垂れていた。くさい、くさい。僕はなにげない顔を装って、死体を迂回し て通り過ぎる。女子学生とすれ違う。救いを求めてふり返るけれど、やはり 彼女も無表情に猫をよけていた。  またこのざまだ、と僕は僕自身に毒を吐く。  灰色の空を見上げる。本日は晴天じゃないし、雨はいっこう降り止む気配 がないし。そんなことを呟いていたら、足元をおろそかにしたせいで、靴が 水溜りの中に突っ込んだ。  雨水がじとりと靴下まで染み込んでいた。そのまま骨の髄まで染みてきそ うな、執拗な生温さだった。僕は電池の切れた懐中電灯みたいに暗い嘆息を 吐き出すと、いっそのこと反対側の靴も同じ雨水の中に突っ込んでやろうか と考えた。でも、やめた。  濡れた片足を引き抜いて、やっぱり僕は水溜りを避けて通った。  片方だけ黒くなった靴で階段をのぼって駅のホームに辿り着くと、僕の目 の前で列車のドアががしゃんと閉まった。ナイス・タイミング! 苦笑いを 浮かべて十五分待って、ようやくやってきた次の電車で、僕はみっちゃんと 再会した。  僕が電車に乗り込んだとき、みっちゃんは車両の隅の座席に腰掛けて、ま っすぐな角度で、向かいの窓から外の景色を見つめていた。なにしろもう十 年近くも会っていなかったから、最初、僕はその女性がみっちゃんなのだと いうことを上手く理解できなかった。でも、列車が二つくらいの小さな駅を 通り過ぎる頃には、僕は彼女があのみっちゃんに間違いないと確信を固めて いた。僕にはそれが分かった。  なにしろ、僕は彼女の事をよく知っていたのだ。  僕の身長が東京タワーの三百分の一よりも、もう少しだけ大きくなったの と同様に、彼女の容姿も十年ぶん大人っぽくなっていた。すらりとした肩に 繊維の細い釣り糸のような髪の毛を流し、少し寒そうな薄着を着て、相変わ らずの美人で、彼女はおならもせずに遠くを見つめて座っていた。  僕はつり革に体重を預け、中吊り広告を読むふりをして、横目で彼女を気 にかけていた。僕と彼女の間には、沢山の知らない顔と、夕日の差し込む数 メートルが挟まっていた。  彼女はまだ僕に気づいていなかった。気づいても、今の僕を僕だと分から ないかもしれない。  列車ががたんと車体を揺すって、僕の降りるべき駅に停車した。  だけど僕はつり革を掴んだまま、再び車輪が転がり出すのを待った。    3  みっちゃんに関するエピソードはアリゾナ砂漠の砂の数ほどあるから、語 っても語っても尽きることはない。  例えば、夏休みのお話。  僕の毎朝の日課は近所の公園で行われるラジオ体操と平凡だったが、もち ろんみっちゃんの場合は一味も二味も違った。  八月のある暑い朝、僕の部屋の窓ガラスがどかんと揺れた。寝ていた僕は 何事かと飛び起きて、窓を開け、みっちゃんが枕を投げつけたのだと知った。 僕の部屋と隣の家のみっちゃんの部屋は、示し合わせたみたいにぴったり向 かい合わせで窓がついていて、そのせいで、僕は何かにつけてプライベート な時間を邪魔された。  開け放たれた窓枠から飛び降りんばかりに身を乗り出して、 「ねぼすけ、起きたかー!!」  とみっちゃんが叫んだ。後で枕を拾いに行かされるのもどうせ僕なんだろ う。  しぶしぶ眠い目をこすって時計を見たら、午前四時三十分とあった。  冗談じゃない! 何の罰で、こんな朝早くに叩き起こされなくてはならな いのか。ラジオ体操だって始まる時間はまだ先だ。僕が不平を訴えると、彼 女はからりと笑って、 「ラジオ体操なんてつまらないことやってんなよ。今日は俺の日課につき合 わせてやる」  と言った。  僕は(勝手に人の部屋にあがりこんできた)彼女にパジャマを引きむしられ そうになって、やむなく着替えて外に出た。下手に抵抗を試みようものなら、 彼女の行為はより過激にエスカレートしてしまう。そのことを身をもって心 得ていた僕は、もはや彼女のなすがまま、きゅうりはパパだ。  僕らは朝霧も晴れないうちから公園に行き、結局何をやらされたかという と彼女が独自に考案した「ラジオなし体操」という代物だった。体操とは名 ばかりで、その内容たるや腕立て伏せに腹筋背筋グラウンド三周バットの素 振り、そしてヒンドゥースクワットの後にピンポンダッシュという悪夢のよ うなトレーニングメニューだ。二時間後、全行程を終始笑顔でこなしたみっ ちゃんの横で、僕の体はベンチの上でミイラみたいに干からびていた。  なさけねーなー、と白いワンピースの裾をひらひらさせて僕の周りを跳ね 回るみっちゃんが、ベンチの下で死に掛けていた老犬を発見したのはその時 だった。  犬はがりがりにやせ細っていて、暑さにやられて立ち上がることもできな いでいた。  もう何日そこで倒れていたのだろうか。  僕は、助けてあげなきゃ、とみっちゃんに言った。彼女も即座にそれに同 意した。僕たちは家から朝ごはん用の菓子パンを持ち出して、再び公園に引 き返した。  老犬はなにもかもがどうでもいいという風にくたびれた瞳で蟻の行方を追 っていたが、戻ってきた僕たちが抱えているものを認めると、舌を垂らして よだれをこぼした。重い足を引きずって尾を振り振り、期待を込めた瞳でに じり寄ってくる犬に、僕は急いでパンを与えようと焦った。  だがそのとき、みっちゃんが僕の腕からパンをまるごと奪い取ると、自ら 老犬の元へ進み出た。  彼女は、パンを持った手を老犬に差し出し、すぐに引っ込めた。  そしてもう片方の、空っぽの手のひらを、老犬の鼻面に突き出した。  犬は戸惑い、パンのある手を追いかけて彼女の周りをよろよろと回った。  だけど、それに合わせてみっちゃんも回転したので、老犬はどれだけ走っ ても、パンに飛びつくことはできなかった。  まるでダンスみたいだった。  くる、くる、くる。朝の公園で、みっちゃんが踊る。  くる、くる、くる。よだれをたらした野良犬も踊る。  力尽きた老犬の足が止まった。それでもみっちゃんは、無言で老犬の鼻先 に白い手のひらを突き出しているだけ。  僕は彼女の真意を測りかねていた。どうしてあんな残酷ないたずらをする のだろうと思った。でも、みっちゃんの表情は、怖いくらいに真剣だった。  犬がみっちゃんの目を見つめた。  みっちゃんも犬の目を見つめた。  そうして、犬はみっちゃんの白い左手に噛みついた。  悲鳴を上げたのは僕だった。老犬はさっきまでくたびれていた目をぎらぎ らと輝かせ、持てる力の全てを使って彼女の腕を食い千切ろうと頑張ってい た。みっちゃんは、痛みに眉をしかめながらも、手を突き出したまま耐えて いた。  そうやって、ただじっと犬の瞳を見つめ続けていた。  僕が目をつぶって老犬のお腹を蹴とばさなかったら、彼女の左手は使い物 にならなくなっていたに違いない。  真っ赤な血の色に染まった左手をだらりと下げて、彼女はにやりと犬に笑 った。 「それでよし」  そうしてパンを投げてやった。    すごく遅れて「あ、いたたた」と腕を押さえたみっちゃんは、結局病院で 三針縫った。    4  列車は大きな駅に停車した。  うっかり者なら遭難できそうなほど深遠な地下街を持つ、賑やかな町だ。  僕はみっちゃんがこの駅で下車するかもしれないと考えていたのだが、列 車が何人かをげろげろと吐き出して、また何人かを飲み込んで口を閉ざした 後でも、彼女は相変わらずの姿勢で座席の隅に落ち着いたままだった。  僕は困惑していた。  さっきの駅での入れ替えで、彼女のちょうど向かいの席が、一人分だけ空 いたのだ。  絶好の機会ではないか。  この機を逃す手はなかった。僕はできるだけ自然な速度でその席に歩み寄 り、よっこらしょ、と尻を下ろそうとして顔を上げ、そのとき初めて向かい に座る彼女に気がついたような顔をして、やあ久しぶり、と声をかける。  そんなシミュレーションを頭の中で繰り返しているうちに、座席は小太り のサラリーマンに奪われた。  仕方ないので、僕はやっぱりつり革に掴まって女性週刊誌の広告を見つめ ながら、彼女を気にするのだ。  線路は続く、回想も続く。    5  夏がどんな季節だったか、もう誰も思い出せなくなったくらいの冬のどま んなかに、僕とみっちゃんは流れ星に夢中になった。  その月の終わり頃になんとか座の流星群が地球に大接近して、大量の流れ 星が観測されるだろうという予想がテレビで大々的に放送されると、珍しく みっちゃんの足元がうずうずし始めたのだ。僕は彼女が食べられるものにし か興味がないと思っていたので、彼女が流星群なんかに気を惹かれたことに 驚いた。夏祭りの時だって、僕が花火に見とれている間に彼女は十五個目の りんご飴を棒まで食い尽くす勢いで平らげていたというのに。  僕がみっちゃんにそう言うと、 「だって、祈るだけで願いがかなうんだぜ!」  と彼女は瞳をぴかぴかさせて答えた。そういうことか、と僕は納得した。 「みっちゃんは何をお願いするの?」  と聞きながら、僕はランドセルの中に教科書とノートを詰め込でいた。帰 り支度を完了させた僕を見て、みっちゃんは机から飛び降りた。彼女に持っ て帰るべき教科書なんてないのだ。だって何も持ってきていないのだから。 彼女の背負う、公園のジャングルジムと同じまっ赤な色をしたランドセルは、 いつもすかすかに軽かった。 「俺には夢があるんだ」  と、みっちゃんは言った。  それはなに、と続けて質問しようとしたそのとき、僕たちは教室を出る間 際のところで背後から呼び止められた。 「なあ」  振り返ると、アブラムシみたいな薄笑いを浮かべた男子が数人近寄ってき ていた。彼らは確か僕と同じクラスの男子だったと思うのだけれど、全員が あまりに同じような笑みを浮かべていたので、僕には、均等に並べたいちご 大福を見ているみたいに、誰が誰だか上手く見分けがつけられなかった。も ともと人の名前を記憶するのって苦手なのだ。  なんの用だと聞くよりはやく、アブラムシの中の一人が僕の肩に手を回し てこう言った。 「あのさ、一緒に連れションきてくれよ」 「なんだお前ら」  みっちゃんが犬歯を剥いてアブラムシの群れをにらむと、彼らは蛇に出く わした蛙のようにびくりと数歩後ずさった。虫になったり蛙になったり忙し い人たちだなぁ、と僕は思った。だけど彼らはすぐに気を取りなおして(立 ち直りの早さはカメレオンみたいだ)、僕の腕をむんずと掴み、行こうぜ、 行こうぜと歩き出す。 「マエダはくんなよ、お前は女だろ」  薄笑いで念を押されて、みっちゃんはものすごく不満げに喉を鳴らした。 がるる。こっちはライオン。  僕は彼女に、すぐ行くから校門で待ってて、と手を振った。  よく考えたら尿意なんてなかったが、その心配はちゃんちゃら無用だった。  せっかく連れ小便に来たのに、用を足した人間はいなかった。  僕はずっと便所は用を足すところだと思っていたのだけれど。どうも、彼 らは、僕を囲んでお喋りする場所だと勘違いしているようだった。 「前から思ってたんだけどさ」 「お前ってくさいよな?」 「ああ、くさい、くさい」 「しょんべんみたいな臭いがするんだよ」 「くさい、くさい」 「便所みたい」 「便所虫」 「くさい、くさい」 「くさい、くさい」 「くさい、くさい」    †  トイレでトイレをしなかったその日から、僕はクラス中の男子に特別な処 遇で迎えられるようになった。ある日を境にびっくりVIP待遇である。  理由はよく解らない。多分アブラムシにはアブラムシだけに通じる法則が あるのだろう。彼らは彼らの基準で僕を測定し、そのテストに僕はみごと合 格してしまったのだ。でも、僕はそんな価値観を自分に当てはめてほしくは なかった。僕には僕のルールがあるのだ。  まず、彼らは僕を便所虫という名前で呼ぶことを徹底した。僕は彼らをア ブラムシだと思っていたので同じようなものかもしれないけど、彼らの笑み は本当にアブラムシに似ていたし、それに僕は口に出して彼らをそんな名前 で呼んだりはしなかった。  彼らは僕が何かを口にすると、それがどんなに平凡な発言でも取り上げて 物笑いの種した。ナウな話題をかっさらい、と言えば聞こえはいいが、自分 で笑わせようと意識しなかった言葉まで笑われてしまうのは、なんだかとて も不愉快だった。お昼になると僕にだけ給食の牛乳が三本きた。四本や五本 の日もあった。サービス精神は有難いのだけれど、一度にそんなに飲んだら おなかを壊してしまうので、やっぱりこれも迷惑だった。何故だかデザート はひとつも回ってこなくなってしまったし。  そういう彼らのアブラムシ的な所業が何日も続くにつれて、僕はしだいに 学校に行くのが面倒臭くなり、なんだかもやもやとした怒りの原型のような ものを彼らに対して感じるようになっていた。  でも、みっちゃんは違った。  みっちゃんは、よく研ぎ澄まされた包丁でまっぷたつに切ったいちご大福 のような、隠しどころのない明確な怒りを彼らに抱いた。  とうとうある日の昼休み、体育から戻ってきた彼女は、 「俺は、あいつらを、叩きつぶすぜ」  と高らかに宣言した。 「叩きつぶすのはよくないよ」 と僕は止めたが、火のついた彼女のエンジンは止まらなかった。 「お前はそれでいいのか。いじめられて、悔しくないのか」 「いじめられてるってわけでもないよ。平気だよ」 「うそだ」 「うそじゃないよ」 「うそつくやつは、俺は嫌いだ。うそをついたことに気づいてないやつは、 もっと嫌いだ」  みっちゃんの瞳は今まで見たことのない色にぎらぎらと燃えていた。  僕は、自分がみっちゃんの事をよく知っているつもりでいた。理解してい ると思っていた。  でも、僕は彼女を止めることが出来なかった。  その日の放課後、みっちゃんはアブラムシ軍団を公園に呼んで、文字通り 「叩きつぶし」た。  僕がいまだにこの、彼女の思い出を、こんなにも鮮明に記憶している理由 のひとつは、彼女の言動がいちいち不可思議なものだったからだ。  不可思議というか常軌を逸していた。  むしろ化け物じみていた。  秋の、小さな小さなかたむいた陽を逆さに受けて、彼女の顔は体の中を循 環する血液の色を皮膚の奥から透かしていた。風に遊ばれて揺らめいた髪の 毛みたいな銀色の川は、どこか遠くで燃える焚き火の香りをまとっていた。 彼女の腕は高級な陶磁器みたいに青白くて細い。あの燃えるような瞳、赤い ジャングルジムの瞳は、どんなビー玉よりも透明で純粋……  その時の光景を事細かく再現することを、僕はしたくないから、簡潔に述 べよう。夕暮れの公園に集まったアブラムシの中心メンバーである六人の男 子を、彼女はひとり残らず自前のバットで殴り倒した。僕が訊かなかった 「折りやすい」ものを何本か折った。 「俺は、お前らとは、違う!!」  もう、とうに立ち上がる力を失った相手を殴り続けながら、彼女はしきり にそればかりを繰り返していた。 「俺は、お前らとは、違う!!」  殴る。 「俺は、お前らとは、違う!!」  殴る。 「俺は、お前らとは、違う!!」  殴る。 「俺は、お前らとは、違う!! 俺は、お前らとは、違う!! 俺は、お前ら とは、違う!!」  ぼこぼこの顔でひいひい言いながら逃げた一人が呼んできた先生たちが、 三人がかりで彼女を取り押さえた後も、みっちゃんは悲鳴のようなその叫び をずっと吐き出し続けていた。    6  電車の中でつり革を持たずに立っていられる人を、僕は凄いと思う。  僕は自分の三半規管をののしりたいほどのバランス音痴なので、時々つり 革ごと引きちぎって転びそうになることがある。これでも、子供の頃はよく みっちゃんと一緒にジャングルジムに登って遊んだのだけれど。  僕はみっちゃんと別れてから、落下するのが上手になった。バランスを崩 してしまっても、痛くないように自分を守るやり方を身につけた。そういう のって、みっちゃんが一番苦手なやり方だった。  僕は依然として動きのないみっちゃんを観察し、それから、車窓を流れる つまらない夜の景色へと視線を移した。空は分厚い雲におおわれていて、流 れ星も降っていない。  代わりにずっと雨が降っていた。  思い返せば、いつだって水溜りはそこにあった。道の真ん中で濁ったあぎ とを開いて、曇った空を歪めて映して、餌がかかるのをアリジゴクみたいに 待っていた。僕は視力は悪くないから、水溜りはちゃんと見えていたはずな のに、自分は大丈夫だろうって気がつかないふりをしていた。  そうしたら、落ちた。  なんとなく入った高校をなんとなく出て、なんとなく行きたかった大学に 落ちた。  今日も雨が降り、そうして僕の内部にある水溜りは、今日もずんずん深く なってゆく。  なぁ、みっちゃん、分かるだろう、あれからもうすぐ十年なんだ。十年も あれば誰だって、望むと望まざるにかかわらず、歳をとって変わってしまう ものなんだよ。空き地がビルに変わっていくみたいに、できることが増えて、 できないことも同じくらいに増えていくんだ。  みっちゃん、僕はどうやら変わってしまったみたいだ。君はどうだい?  僕は少し重たくなってきたまぶたの言い分を受け入れて、列車の小刻みな 揺れに合わせて静かに瞳を閉じてみた……    7  起きたときには、目覚まし時計を握りしめていた。  はっと我に返り時間を確認する。午後十一時時三十分。約束の時間ちょう どだった。念のために三十分前にセットしておいたタイマーを止めたまま、 しばらく二度寝してしまったらしい。いつものパターン。不快な夢の後味を ふり払い、僕はあたふたと着替えて窓を開いた。机の上で手ごろな塊を探し、 手に触れた消しゴムを半分に千切って向かいの窓に投げつける。ゴムは運悪 く吹きつけた北風に妨害されて、見当違いの方向に飛んでいった。結局残り の半分も投げる羽目になってしまう。  消しゴムの合図で向かいの部屋の消えていた電気が、短い間だけちかちか と点滅した。  点滅、点滅、二秒の間の後にまた二回の点滅。  これはおーけー了解かかってこんかい、の合図だ。  僕は忍び足で階段を降りた。こっそり玄関から外に抜け出した。家の前に はもうみっちゃんがいた。意味もないのに例のバットを肌身離さず持ってい る。あんなに激しい喧嘩をやらかして一週間も学校に出てこなかったくせに、 もうすっかりいつもの調子だ。 「遅いぞ、なにやってんだー」  遅くないよ、ちゃんと予定通りだよ。 「ちゃんと寝といたか」  うん、でも眠いと僕はむにゃむにゃ答える。十一時三十六分。いつもはと っくに夢の中の時間である。  こんな夜中に子供だけで出歩くなんて生まれて始めての経験だった。いつ も通っているはずの道が、見たこともない顔をしていた。いつもの曲がり角 の先だって、今夜は一度踏み込むと戻れないブラックホールへの入り口だ。 街路樹の茂みの陰には夜から夜を渡り生きる未知の怪物が金色の目を細めて 潜み、交差点には今まで気がつかなかった世界への曲がり角が、ぱっくりと 暗い口を開けて僕らを誘っているのだ。  街灯の明かりを綱渡りして、みっちゃんと二人で冬の夜の中を走った。初 めての経験に、不安と、恐怖と、興奮で、僕の血はざわざわと騒いでいた。  どきどきしていた。どきどきしていることを悟られないように、僕はみっ ちゃんと話をした。無口なままだと夜の暗さに飲み込まれてしまう気がした。 「ねえみっちゃん、ええと、夜って暗いね。有機的に暗黒だね」 「なんだよ、怖いのか」  即座に見破られてしまった。 「そういうんじゃないけどさ、曇ってるね、空」 「曇ってるな」  溶かす水の分量を間違った、水彩絵の具みたいな空の黒。黒いキャンバス の上から黒を塗ったみたいに、ごてごてした雲が刻一刻と厚みを増して頭の 上を埋め尽くしていた。きっと宇宙のブラックエネルギーが固まって、夜の 雲になるに違いない。ブラックエネルギーは普段は宇宙の闇でうずまいてる けど、夜になると冷えて固まって重たくなり、僕らの目に見える高さまで降 りてきて雲と呼ばれるのだ。  やっぱり公園には誰もいなかった。  僕らはジャングルジムのてっぺんによじ登り、冷たくなった手のひらに息 を吹きかけて温めた。みっちゃんがポケットから携帯用カイロを取り出した ので、二人でひとつのカイロを握りしめた。とても熱くなっていて、霜焼け の隙間にじんじん染みて痛かった。 「雲ってるね」  並んで空を見つめていた。やっぱり何かを話していないと落ち着かなかっ た。いつもはこの場所から見下ろせるはずの砂場も滑り台もグラウンドも、 たった一本の街灯を頼りに探すには、世界は暗く、広すぎた。  みっちゃんの表情も、スカートの模様だってよく分からない。 「曇ってるな」  みっちゃんは両足をぶらぶらさせて、じっと空を見上げていた。 「ねえ、こんなに曇っているんじゃ、流れ星は見えないんじゃないのかな?」 「どうだろうな」  気のない返事。 「テレビでは今日が一番たくさん降るって言ってたけど、でも、この天気じ ゃ無理かも」 「もっとこっちこいよ。寒いだろ?」  みっちゃんが、いきなり僕をぐいと引き寄せた。ぎゅう。 「お前、ずっと昔からそうなんだ」  と言って彼女は微笑んだ。力いっぱい押しつぶされて、僕は息が出来なか った。 「何年生になっても九時になったら眠たくなるんだ。暗いところが怖いんだ。 不安なときは声が大きくて、早口になるんだ」  触れ合った彼女の体は、携帯カイロよりも熱かった。僕の鼻先に髪の毛が 降りていて、くすぐったかった。心の奥でもぞもぞと、見たことのない気持 ちが動いた。変な気分だった。 「自分の事を僕って呼ぶのは格好悪いと思っているけどなかなか『俺』に変 えられないんだ。赤信号だと車がなくても止まっちゃうんだ。いつも自分ひ とりじゃ迷ってばかりで決められないんだ。そのくせ俺が決めたら立ち止ま るんだ」  みっちゃんはどんどん僕を抱きしめる。どんどん深くまで、僕は抱きしめ られる。彼女は僕の表面をすり抜けて内部に潜り、一番深い部分にしまって あった心臓を抱きしめる。 「喧嘩するのが大嫌いなんだ。誰かが負ける姿を見るよりは自分が勝たなけ ればいいと思うんだ。俺がいつも怒っていると思っているんだ。女の子に近 づく度胸もなくて、今だって、俺とくっついてるだけでどきどきしてるんだ。 そうだろ? そうだよな。お前はそんなやつだよな。悪くない、そういうお 前って悪くないぜ」  彼女は僕の心臓をかち割り、その中に隠されていた魂に口づけをくれた。 「でも、最近の俺とお前って、なんだか昔みたいに上手くいかなくなってる ような気がする」 「…………」  そうかもしれない、と僕は思った。 「前はさ、俺とお前は二つに割ったみかんの片方ずつみたいにぴったり合っ てた。最近は――よく分からない。俺は強くなりたいんだ」  ゆっくりと体を離し、彼女は立ちあがった。細い足場をしっかりと踏みつ けて空をにらんだ。  拳を突き上げ、近所迷惑な大声で吼えた。 「流れ星なんて降らなくたっていいんだよ!! 俺が降らすから!!」  乾いた冬の暗闇をぶち壊すように白い息が躍り、彼女の背後で金色の炎が 一筋、曇り空を引き裂くように、斜めに流れた。 「聞いて笑うなっ!! 俺の夢は世界征服だ!!」 「なにそれ――」 「笑うなって言ったろ!」  二つ目の星が降り、三つ目の星がそれを追いかけた。四つ目は三つ目を追 い越し、五つ目は四つ目と衝突して眩い花火に変化した。六つ目に落ちたの は太陽よりも巨大な星だった。七つ目は七色に輝く。 「強くなりたいんだ。もっともっと強く、世界で一番強くなりたいんだ。こ れは俺だけじゃない、きっと世界中の子供たちが見る夢だ。世界中の子供が 一度は夢見て、そのうち忘れてしまう夢だ。どんどん自分が主人公じゃなく なっていくなんて、俺には耐えられないんだよ!」  みっちゃんの声は次から次へと星になり、大空から降り注いで公園を真夏 みたいに照らした。  僕は唖然として黄金の世界に見とれていた。 「流れ星がひとつで足りないのなら、いくつでもこの手で引きずりおろして 願いをかなえてやる!! いつか、しわしわが増えてにぶくなって死んでい く前に、やれないはずのことを全部やってみせてやる!! お前も、そう思 うだろ? お前も、強くなりたいだろ!? だから、俺と一緒に、強くなろ う?」  彼女の言葉と流星の光は僕の心に激しい揺さぶりをかけて、閉じかていけ た扉をこじ開けつつあった。差し出されたみっちゃんの白い手は、暗闇の中 を消えることなく導いてくれる灯台なのだ。今、ここで彼女の手をとればい い。彼女の手を取り彼女を受け入れ彼女とひとつになって、彼女と共にずう っと星を降らせて生きていこう。完全になれる。最強になれる。夢を全部忘 れないでいられる。これ以上に魅力的な握手なんてこの先一生できるチャン スはないんだって知っていた。だから、  だけど、僕は伸ばされた手を見つめたまま、動くことができなかった。  みっちゃんの、揺れない瞳が揺れていた。 「……お前は、俺が、嫌いなのか?」  答えられない、上手く言えない。そうじゃない、決してそうじゃないんだ けれど。強さを切望するみっちゃんも、絶え間なく空から降り注ぐ星も、最 高に美しかったけれど。  僕は近頃みっちゃんと一緒にいると、なんだか酷い疲れを感じるようにな っていた。  だから、少年の僕はもう空想を止めることにした。 「ごめんなさい」  僕は言った。 「やっぱり、僕はみっちゃんがしたことが怖い」  みっちゃんは一週間学校を休んだ。でも、アブラムシの六人はまだ病院の 中にいた。綺麗な手でバットを握って他人を傷つける勝ち方を、僕は上手に 自分の中に受け入れる自信がなかった。  だから僕はわざと突き放すように言った。 「僕は、まだ、みっちゃんが怖いんだ」  最後に見えた彼女の顔は、悲しげだった。  一度目を閉じ、再び開くと、僕の隣にもうみっちゃんはいなかった。  空には灰色の雲がかかっているだけだった。星の代わりに滝のような雨が 降っていた。  僕はのろのろとジャングルジムを降りて、ずぶ濡れになって家に帰った。 九歳の誕生日に自分で買ったバットは途中の道に投げ捨てた。一人でできる 野球はないのだ。玄関を開けると、こんな時間にどこへ行っていたのと両親 にどやしつけられた。僕の家の隣には誰も住んでいない。僕の家の隣はずっ と前から鉄条網で囲まれた空き地なのだ。  そうしてみっちゃんは僕の中から消滅した。    †  みっちゃんの話をしようと思う。  僕はみっちゃんの事をよく知っている。  だって、みっちゃんは僕の中にいる。  みっちゃんは僕の一部だ。  おい、みっちゃんって誰だ!  僕がみっちゃんだ。    8  ………………  …………  自分で自分に語りかけ、自分が自分に語りかける声に耳を澄ましているう ちに、僕の意識は深い回想の水面を降下し、ついには沼の底までたどり着い た。そうして再び浮かび上がったとき、僕は十数分間の意識の空白をこの手 に固く握りしめていた。  つまり、僕は電車の中で昔の事を思い出しているうちに、いつの間にか居 眠りをしてしまったというわけだ。まったく、立ったまま寝てしまうなんて、 僕の中にも器用な部分が残っていたものだと感心してしまう。  目が覚めたきっかけは、どうやら電車がどこかの駅に停車したかららしか った。途中意識を失っていたこともあり、普段使わない路線にまで踏み込ん でいたので、僕にはもうここがどこの駅だかさっぱり見当がつかなかった。 駅名を見ても、当て字みたいなその名詞をどう読むのかが理解できない。  気がつけば乗客も随分と減っていて、座席のあちらこちらに虫食いのよう な空席がちらほら伺える。こんな状態で立っているなんて、馬鹿みたいだ。  僕はあくびを噛み潰しながら、そういえば、と車両の隅の席を見る。  そして思わず、おいまてよ、と僕は叫ぶ。隅の座席にみっちゃんの姿はな かった。  気を抜いていた短時間のうちに、彼女は煙のように消えていた――  否、と僕はとっさに首を巡らす。  いた。  列車の外側、小さな駅のホームの上に彼女の後ろ姿を認める。  ここが彼女の降りる駅だったのだ。僕は、今まさに閉まらんとギロチンの ように両側から押し寄せるドアの隙間をくぐり抜けて、間一髪でホームの上 に舞い降りた。舞い降りた、と言えば聞こえはいいが実は尻餅をついていた。  薄暗いコンクリートの階段。天井に遮られて見えない曇り空。頭の上を打 つ雨の音。  人影まばらな夜の駅舎で、十年ぶりの彼女の背を追って僕の気は急いだ。  妙に落ち着き払ったふりをしている興奮と手をつないで、黴臭い段差を下 りていく。古びた駅の構内は、十年という空白を閉じ込めて発酵させた匂い がした。まるで長い間、僕が訪れるのを承知で待っていたみたいだ。  なにもかにもさ、こればっかりは十年前から変わっちゃいない、やたらと 濃度の高い僕自身の空想かもしれない。半分以上そのことに気づいた今でも、 僕は彼女を追いかけていた。  寝起きの、煙がかった頭のままで、一心不乱に懐かしい背中を追いかけた。 理由なんて知らない。理由なんてない。ただ、電車の中で彼女の姿を見つけ た瞬間から、どうしても後を追わずにはいられない衝動があった。夢か現実 かも知らない。声をかける決心もつかない。それでも、僕は見知らぬ駅で、 見知らぬ町へと今まさに出て行こうとしている女の子の背中を捕まえたかっ た。  捕まえたかった? そうだ。そうして訊きたかったんだ。  みっちゃん、なあ、お前は、今でも昔のみっちゃんのままなのかって訊き たかった。  今でも最強最悪の根性バットを振り回して、他人の迷惑なんてかえりみず にジャングルジムの上から世界を見下ろしてくれているのかどうか訊きたか った。僕が望んで一度は手に入れたのに、重さに耐えかねて投げ捨ててきた 荷物の数々を、今でも全部抱えてそこにいるのか訊きたかった。  あの時彼女の手を掴まなかったことを後悔しているわけじゃない。  だけど、今でもあんたは「あんたの夢は何ですか?」と訊かれたら、訳の 知らない自意識過剰な子供の頃そのままに胸を張って、すぼめていれば百万 ドルの美しい口から攻撃的な犬歯を剥き出してにやりと笑って、校内放送顔 負けの大声で「決まってんだろ、俺の夢は世界征服だ!!」って、心の底か ら決めつけてくれるのか、どうなんだ、決めつけてくれるよな、それが訊き たかったんだ!!  改札口を抜ける列に並んだみっちゃんに、僕はあと十歩で追いつける。疲 れた足が軽くなり、一歩の幅が大きくなる。  だけど次の瞬間、喉元までせり上がっていた歓喜の叫びが押し殺した悲鳴 に変わる。  なんてことだ! 僕はこの改札を抜けられない!!  手持ちの定期券が通用するエリアなんてとっくの昔に通り過ぎていた。乗 り越し清算なんてしていたら見失う。どうしよう!? 躊躇した僕の脳裏に、 激しい閃光と共に巨大な彗星が激突し、爆発して、焼け跡から「強行突破」 の四文字が浮かびあがった。人類の宿敵、自動改札機との尊厳を賭けた対決。 一瞬前のためらいは、爆風に巻かれて宇宙の彼方に吹き飛ばされていた。僕 は覚悟を決めた。ええと、やってやろうじゃないかこのメカ野郎――  ガタン!!  と乾いた音が駅舎に響いて、違法な通行を妨げるべく改札口のゲートが閉 じた。  僕の、  目の前にいた、女性の前で。 「なんでだこのメカ野郎――――――――――――――――――!!!!」  叫ぶときは、もちろん大口。  おしとやかな見た目から出てくるのが信じられない、化け物じみた怒鳴り 声。 「俺はちゃんと切符を入れたぞ!! おい、お前は俺の邪魔をするのか!? 俺に何か恨みでもあるっていうのか、こいつ!! このメカッ!! 機械仕 掛けのメカ野郎ッ!!」  一人称はいつまでたっても『俺』。ひるがえるスカートなんて構わずに、 がしがし自動改札機を蹴りつける恥知らずな行動。変なタイミングで突然切 れる堪忍袋。  短絡的な思考、大言壮語を有言実行、周囲の迷惑にはいつも盲目、自己中 心的すぎる暴れっぷり。誰もが思う、「こんなやついねぇ」と。ほら、慌て て向かってくる駅員が体格のいい男でもちっとも臆せずにらみつけるあの目 つきの凶暴さなんて、確実にあの頃より磨きがかかっている。  僕は  ――――、  言うはずだった言葉を全部溜め息にして消費して、苦笑しながらかぶりを 振った。  まるで冗談。冗談みたいに最高だった。  騒然とし始めた改札口に背を向けて、降りたばかりの階段へと向き直ると、 上のホームからは、帰りの電車が間もなく到着しますと教えてくれる声がし た。 「お前は、俺が、嫌いなのか!? そーなのかっ!?」  背中に受けた優しい怒鳴り声に後押しされて、僕は見知らぬ駅の昇降口の、 最初の一段に足をかけた。肋骨のもっと奥、心臓の真ん中あたりの細胞が、 まだぴかぴかした少女の唇の感触を記憶していることを確かめる。そして歩 き出す。  好きだぜみっちゃん、大好きだ。 (That's all)