なつやすみ[ハルカが死んで、奴らは一体どうしたか]    一幕・陽射 / [ハルカが死んで、里見圭介はどうしたか] ◆ ◇ ◆ ◇  八月四日はもちろん暑くて、思いっきり夏で、どうしようもなく晴れてい て、おまけに葬式だった。  そんな日だった。  山奥にある里見の本家の裏手から、さらに山奥へと続く獣道を登り、崖際 すれすれを這い進み、丸太を渡した橋を越えると、小さな小さな祠がある。  子供の背丈ほどしかない、朱の剥げた鳥居の向こう。腐りかけた木箱の奥 に、何の有り難味もなさそうな御神体が押し込まれているだけのぼろっちい 社がある。  賽銭箱は空。供物はしなびた蜜柑が一つ。煙の消えた線香が五本、カップ 酒の空き瓶に適当に突っ込まれて並び、水受けの中には死んだ羽虫がぷかり ぷかりと浮いている。  こんな場所のたった一つの取り柄は、眺めが良いこと。  社の西側には、丁度山間に景色が開け、村全体を一望できるようになって いる土手がある。  誰もいない、そんな高台の土手に仰向けに転がって、里見圭介は空を眺め ていた。  空を見ている。  ゆっくりと、流れていく雲を数えている。  ここから見るのは、五年ぶりの空だった。一度引っ越してから、夏休みの 頭にハルカの「療養」という名目で再び帰郷するまで、圭介はこの場所の事 を忘れていた。  五年ぶりの空は相変わらず青くて、五年ぶりの景色は相変わらず寂れた村 を一望できて、そして五年ぶりの故郷はまた少し人口が減っていた。  大塔村は、山奥のそのまた奥の、昼間っから狸も狐も猪も出て、夜になっ たら蝙蝠も幽霊も妖怪も出そうで、動物じゃ人間が一番希少種みたいなド田 舎村だ。全ての家にぼっとん便所が完備されているような村だ。村人全員が 軽トラックを持っているような、そんな村だ。  五年ぶりの土手に転がって、里見圭介はただひたすらに空を眺めていた。  なんとなく空を眺めるのではない。頑張って空を見上げていた。  頑張って空を見て、景色の中に小さく見える里見の本家に、喪服に身をつ つんだ人間たちが出たり入ったりを繰り返すのが目に入らないようにしてい た。  空だけが、いつまでも変わらない。そんなことがひどく不公平に思えた。 「サボり発見」  不意に、頭上から声が降ってきた。 「あんた、こんなとこでなにやってんの」  いつの間にか、圭介の頭をまたいで少女が立っていた。黒のタンクトップ にジーンズというラフな格好で、ドラえもんの頭みたいなサイズの西瓜を小 脇に抱えている。  見るからに変な奴だった。  訊いてみた。 「誰だお前」 「島崎茜、十八歳やよ」  少女が名乗った。  (律儀に答えるなよ……)  と、思う。  圭介はその名前を知っていた。というより、昨日も会った。一昨日も会っ た。一昨昨日は会わなかったが、その前の日は会ったような気がする。  まあつまり、ほとんど毎日顔を合わせていた。  島崎茜は、幼馴染で、馬鹿で、横暴で、大喰らいで、てっとりばやく言っ てしまえば親友だった。短い髪が一見快活そうな印象を与える彼女は、実は 快活でもなんでもなく――  圭介は半身を起こし、かったるそうに一つ伸びをした。 「お前こそ、葬式出たのか?」 「うちはもう、おせんこあげてきたわ」 「……そうか」 「あんな雰囲気、うちかたくるしゅうてかなわんけど、他ならん、ハーちゃ んの式やからな。一生懸命祈ってきたで」 「そうか」  茜は、そうだ、と抱えていた緑の玉を掲げてて見せ、 「……西瓜喰う?」 「いらねえ」 「うちは喰うよー。せっかく持ってきたんやし」  茜は一人で勝手に頷いて、何かを探すようにあたりをきょろきょろと見回 し始めた。  圭介はそんな彼女にはすぐに興味を失った。  また寝転がって空を見上げることにして―― 「えい」  どがん!!  なんだか物騒な音がした。  圭介が何事かと振り返れば、おもむろに西瓜を振り上げ、祠の石角に打ち つけている茜の姿があった。何をしているのかと思えば。どうやら、力任せ に西瓜をぶつけて割ろうという魂胆らしい。  圭介は思った。馬鹿だこいつ絶対馬鹿だ。  そんな圭介の冷たい視線などはお構い無しで、茜はヒビの入った西瓜を拾 い上げ、もう一度両手で頭上高く掲げて、打ち付けた。  どがんぐしゃ!!  西瓜はものの見事に、砕け散った。 「よっしゃよっしゃ♪」  満足げに、手ごろな大きさの破片を拾い上げて、口に運ぶ茜。 「なんて割り方してんだよ……」  圭介は呆れて、うめく。 「だって包丁あらへんし」 「……ワイルドな女だ」 「おおきに♪」  誉めてねぇ。  と思う圭介の胸中など知ったこっちゃ無く、茜は無心に西瓜にかぶりつい ている。短い髪が一見快活そうな印象を与える彼女は、実は快活でもなんで もなく、凶暴なだけなのだ。 「……その西瓜、どっから持ってきたんだ?」  別に気になった訳ではないが。なんとなく、聞いた。 「んー。守屋のおいやんの畑からギってきた。来がけに美味そーなの、なっ とったからよ」 「……泥棒じゃんか」 「えーのんよ、うちいっつもおいやんの稲刈り手伝うとるもん。ほやからあ れよ、ギブアンドテイクって奴よ♪」 「あーそう」  別にどうでもいい事だった。圭介は適当に相槌を打って、再び空へと視線 を戻す。  見上げた視線の先に、西瓜が空を飛んでいた。  ……違う。西瓜は空を飛ばない。 「あんたも喰う?」  寝転がっている圭介の上に、茜が身を乗り出すようにして西瓜を差し出し ていた。  滴る汁が、ぽたりぽたりと圭介の頬に落ちている。 「いらんって」  圭介が手で払いのける仕草をして拒否すると、茜はぶーと不満げな声を漏 らして破片を引っ込めた。そのまま自分でかぶりつく。  会話のタネが無くなった。  圭介はひたすらに空を見上げている。  茜は黙々と西瓜を食べている。  二人の間に、奇妙な沈黙が漂っていた。  ぷっ、と。  茜が吐き出した種が視界を横切り、放物線を描いて土手の向こうへ落下し てゆく軌跡を、圭介は目玉だけで追っていた。  ぷっ。またひとつ。  ぷっ。またひとつ。  茜は、そうやって三つ目の種を吐いた後で、今度はぽつりと言葉を吐いた。 「なあ……、ほんまに、ハーちゃんの側にいてやらいでええのんか? 葬式、 まだ終わってへんのやろ。一応家族はおらな、まずいんちゃうか?」 「そーかもな」  圭介は視線を空から離さないまま、曖昧に頷く。 「兄やんおらんと、ハーちゃんも寂しがっとるて」 「そーかもな」  曖昧に頷く。 「うち、おばさんに言われたんよ、圭介探してきてくれへんかって」 「そーか」  曖昧に頷く。 「あのな、ハーちゃんがいんでもうてショックなんは分かるけどな、あんた は兄貴なんやからしっかりせんと」 「そーか」  曖昧に、うなず 「――おいコラッッ!! えー加減にせえよおのれッッ!!」  天地が揺れた。  唐突に胸倉を掴み上げられた圭介は、一度地面に押し倒されて再び茜の目 線の高さまで引きずり上げられた。  茜の顔面が、息がかかる程近くにあった。 「あんたはハルカの家族やろ!? ちゃうんか!? したらなんでハルカの 側にいてやらんのや!! なんや何処で何やっとるか思えばこんなトコロで ほうけたみたいに空ばっか見上げて抜け殻みたいになりやーってよ!! 」  茜の機関銃のような叱咤と唾が飛ぶ。 「ハーちゃんいんで悲しんやろ!? 悲しかったら泣いてみんかいや!!  ケツの穴ちんまいくせに中途半端に格好つけて葬式逃げ出して、そんなん、 がいなダサいんじゃおのれッ!」 茜は怒りに任せて、喰いかけの西瓜を、圭介の顔面にぐりぐりとねじ込んだ。 「ほけとんちゃうよっ! そーゆーの、やにこむかつくねん!!」 「てめ――、ぐッ!!」   何か抵抗の言葉を叫ぼうとした圭介の口に、茜はもう一つ西瓜の破片を突 っ込んで黙らせた。 「怖いんやろ!? あんたほんまはハーちゃんいんでもたのが、怖いんやろ !? ずっと一緒に遊んで、笑ろうて、生きてきたハーちゃんが死んで、悲 しいよりも怖なったんしょ!? ちゃうんかッッ!? 何とか言ってみせよ !! え? どーなんよッ!!」 「――っ!!」  口の中には皮ごと押し込まれた西瓜。この状況で、なんとか言えるはずが なかった。  べちゃり。  この、顔面に西瓜を押し付けられる気持ち悪さというのは、なんというか こう……、味わってみないと分からないだろう。 「こんくそげたッ! へたれッ! 川向こうッッ!!」  べちゃり。  べちゃり。  べちゃり。  べちゃり。  べちゃ、 「っざけんな―――――――――――――――――――――――!!!!」  圭介は口の中の西瓜を噛み砕いて吐き出して、茜から体を引き剥がして足 元に転がっていた砕けた西瓜の真半分をひっ掴み、茜の顔面に向かって思い 切り叩き込んだ。  遠慮も糞も無い音がして、茜の顔面は冗談みたいに西瓜の中にめりこんだ。 「お前に何が分かるってんだコラ!! 泣いてみろだ!? 一生懸命祈った だ!? 俺らが泣いてどーなる祈ってどーなる何が変わる言ってみろこの野 郎何が西瓜だふざけんな!!!!」  圭介は叫ぶ。 「怖いだと!? 当たり前だ!! そんなの怖いにきまってんだろーがッッ !!」  圭介は叫ぶ。 「だいたいお前がハルカの何知ってるってんだ知ったような口ききやがって 五年も離れてたくせにいまさらのこのこ友達面して出てきやがって、ハルカ はな、なんでハルカが死ななきゃならね――んだふざけんな畜生ッッ!!」  圭介は叫ぶ。もう自分でも何を叫んでいるのか分からない。必死に押し殺 していた感情が、砕けた西瓜みたいに破裂してしまっていた。 「…………」  ずるり。  西瓜の仮面がずり落ちて、赤い汁でべたべたに染まった顔面、口元が『に かっ』という形に歪み、茜は張り付いた西瓜の皮を投げ捨て、  吼えた。 「おんしゃーおどりゃー!! よっしゃ上等かかってこんかああ――――― い!!」  茜の高らかな雄叫びで、戦いの火蓋はついに切って落とされた。  八月四日はもちろん暑くて、思いっきり夏で、どうしようもなく晴れてい て、おまけに葬式で、その上西瓜まみれで。  茜の、陸上部仕込みの跳び蹴りが圭介を襲う。 ◆ ◇ ◆ ◇  圭介は、思い出す。  ハルカが初めてうちにきた日のこと。  何だこのちびは、と思った。つねっても蹴ってもぶっても叩いてもすぐ泣 いて、あまりに泣いてばかりなので慰めてみたらまた泣いた。  かあさんはそんなちびにつきっきりになった。とうさんの買ってくるケー キは半分こになった。そしてあるまじきことに、子供部屋まで半分こになっ てしまった。それが面白くなくてちびをいっぱい殴ったら、滅茶苦茶叱られ て頭蓋骨が割れるような拳骨喰らってベランダに閉じ込められて夕御飯を抜 かれた。  笑ってくれた日のこと。  まだハルカがかあさんのことを「おばさん」と呼んでいた頃だ。  ハルカは、暇さえあればお母さんお母さんと、別の「お母さん」の名前を 呼んで家中を巡り歩き、泣きまくっていた。泣いていない時は、一人でどこ でも隅っこを見つけてうずくまっていた。  ぼくはハルカを、お気に入りの場所に連れて行くことにした。  タンスの陰に隠れていたハルカを無理矢理引っ張って、山奥にある里見の 本家の裏手からさらに山奥へと続く獣道を登り、崖際すれすれを這い進み、 丸太を渡した橋を越えた。子供の足には遠い遠い道のりだったが、それでも ハルカはずっと無言でついてきた。  最後の山道を抜けて、開けた土手に出た。  ここは、小さな小さな祠が一つっきりあるだけの、静かな場所だ。  こんな場所のたった一つの取り柄は、眺めが良いこと。あの時の、驚いた ハルカの顔は絶対に忘れない。  狙いすましたように、ちょうど夕暮れ時だった。  眼下に広がる広大な風景。見渡す限りに物凄い夕焼けが、世界を真っ赤に 染めていた。照らされる雲、移り変わる空の色、カラスが遠くに去っていき、 穏やかな夜の足音が包み込むように山から山へと木霊して、広がってゆく赤 紫。  世界中の何処を探してもこれ以上は絶対に無いと自信を持って言える、三 百六十五分の一のとびっきりの夕焼けだった。  どうだ、いいけしきだろ。  うん。  見たこともない壮大な夕焼けに完全に心を奪われていたハルカが、あっけ にとられた表情の中で、ほんの少しだけだけど、笑ってくれた。いい笑い方 だった。  ハルカが、ぼくの前で、初めて笑ってくれた日のことだ。  泣いているよりは笑っているほうがいいなと思った。思った自分になんだ か照れて、また泣かした。家に帰る頃にはもう辺りは真っ暗で、またとうさ んに殴られた。  引越しの日のこと。  やっと出来た友達と別れるのが嫌だとごねるハルカを、父さんは無理やり 座席に押し込んだ。  ぼくは車の中でもめそめそし続けていたハルカの頭をぐいっと掴んでぐり っと回し、ウインドウの外に押し出した。  見ろ。  走り出した車の後ろを、茜が手を振りながら追いかけてきていた。  全身を使ってぶんぶんぶんと手を振って、いつもの乱暴な口調で、何かを 精一杯に叫んでいた。  小学生の、しかも女の子の声量なんてたかがしれていて、遠ざかる自動車 の中までは何を言っているのか、言葉になって届きはしなかったけれど。  でも、ハルカは泣き止んだ。  茜の姿はカーブを曲がると見えなくなった。  冬だった。風に乗って、車の中まで蜜柑の香りがした。  ハルカが泣いて帰ってきた日のこと。  クラスの男子にいじめられたらしい。理由は転校生だから、らしい。  いつも自分が泣かしているくせに、誰かに泣かされたハルカを見ていると 何故だか無性に腹が立った。ぐずぐず言って要領を得ないハルカからなんと か相手の名前を聞き出して、次の日学校でそいつをぼこぼこに殴った。 その次の日、そいつの兄貴だという中学生にぼこぼこぼこぼこに殴られた。  家に帰るとハルカがまた泣き出しそうな顔で、その傷はどうしたんだと聞 いてきた。  トラックに跳ねられただけだから気にするな。  ハルカは笑って、その日から、泣かなくなった。  圭介は、思い出す。  ハルカが自分をおにいちゃんと呼んでくれた日のこと。むずがゆかった。  ハルカと一緒に風呂に入るのをやめた日のこと。  えーだっせーおまえまだいもうととふろはいってんのー?  友達にからかわれて、恥ずかしくなった。今日限りもう一緒には入らない と言うと、ハルカはひどく悲しそうな顔をした。  ハルカの体が動かなくなった日のこと。  だんだんと、だんだんと、足の先から腰へ、腰からその上へと、動かなく なっていったハルカのカラダのこと。  圭介は、思い出す。  ハルカが死んだ日のこと。  夜で、雨で、蒸し暑かった。  部屋でヘッドホンを着けていた。脳味噌が割れそうな、馬鹿みたいなボリ ュームで音楽を聴いていた。何も考えたくなかった。  ドアが開く。ヘッドホンがむしりとられる。  親父が言った。「来い」 「ハルカが起きた」  これが最後なんだと、医者に言われるまでもなく、誰もが気が付いていた。  三日ぶりに目を覚ましたハルカは、冗談みたいにがりがりに痩せていて、 自慢の種だった黒髪は灰色にかすんで見えた。  この髪が、風の中で揺れていた頃もあったのに。  薄暗い部屋の隅で、洗剤の香りのする布団の上で、ハルカはお袋に支えら れて上体を起こして俺たちを見ていた。ゆっくりと、幸せそうな瞳で見回し ていた。  皆が悲しい表情をしていることに少し困った顔をして、笑っていた。  誰も何も言えなかった。  ハルカが、何かを必死に訴えようとして、紫色の唇が震えて、かすれた声 が、喉を擦りながら絞り出されたような声が、 「ごめんな…さ…ごめんなさい……」  お袋は必死で涙を堪え、親父は黙って俯き、祖母は口の中だけでハルカの 名前を繰り返していた。俺は、  何かがキれた。  突然飛び出して、ハルカのむなぐらを引っ掴んで、がくがくと揺すって、 何を叫んだのかは自分でもよく憶えていない。  馬鹿かお前は笑ってんじゃねぇよ我慢してんじゃねぇよ本当は死にたくな いんだろ!? 死にたくないって言えよ、もっとわがまま言えよお前は泣き 虫で、お前が泣いたら、お前をいじめる奴は俺がぼこぼこに殴ってやるから、 だから、ごめんなさいって何だよ  親父にぶん殴られて、床に叩きつけられた。  それでも、俺は、ハルカをずっと掴んで離さなかった。  はなしたくなかったんだ。どこかへ、いかないでほしかったんだ。  親父を蹴倒し、必死で伸ばした俺の手が、小さな温かさに包まれた。  ハルカの手。まだ温かかくて。まだ生きていて。震える瞳が俺を見ていて。  ありがとう……。  それが最後のハルカの言葉になった。  初めて会った時は泣いてばかりいて、  そして最後まで笑っていたハルカの、  それは、幸せそうな言葉だった。  一時間後に、ハルカは息を引き取った。 ◆ ◇ ◆ ◇ 「くそげた――――――――――――――――――――――――――!!」  吼えるのは十八歳のうら若き乙女。土地で一番汚い言葉を高らかに。 「ンだとコラ締めるぞこのアマァッッ!!」  受けるは昨日妹を失ったばかりの、傷心のお兄ちゃん。  八月四日はもちろん暑かった。  放たれた、陸上部エーススプリンターの膝を生かした鋭い蹴りを左で受け、 圭介は茜の懐に入り込んだ。腰を落として茜の重心をぶん捕り、そのまま足 を払う。  見事な一本背負い。  茜が吹っ飛んだ。  受身を取り損ねて、派手に地面を擦ってぶっ倒れる茜。  圭介はガッツポーズ。してやったりという顔で、勝どきをあげようとして ――。  茜が掴んで投げた砂に目を潰され、次の瞬間みぞおちに内臓が跳び出そう な蹴りを喰らって、もんどり打って転がった。  状況一転、ここぞとばかりに茜の罵声が降り注ぐ。  おいこらどーしたけーすけ!! 都会暮らしで体なまったか――ッ!?  なにくそ、と思った。思ったはいいが声が出なかった。  抵抗不可能な圭介の体に、容赦の欠片もないヤクザ蹴りがずしずしと入る。 圭介は体勢を立て直そうとする度いいように転がされ、毒づきを発すること しか抵抗の術がない。  だが。  こう言っちゃあなんだが、茜は喧嘩のプロだ。  無論、いつの時代もトドメの武器は腕力ではないと、知っていた。  言った。 「よわちんの癖に、いっちょまえに悲しみにひたってるんやないで! うち は覚えとるで、あんたがなー!! 最後にねしょんべんたれた歳はなー、ハ ルカよりも――」  人間関係には、踏み込んではいけない領域というものがある。  その瞬間、圭介は遠慮を捨てた。 「てッめ――!! ぜってーケツまくったるッッ――――――――――!!」  『ケツをまくる』は、標準語にぴたりと当てはまる言葉が見当たらない、 土地のスラングだ。あえて訳すとするならば、『こかして踏みつけて後ろから 死ぬほどタコ殴りにして白浜沖にコンクリ詰めにして沈めてやる』というの が一番適当だろうか。  圭介は全身の力を振り絞って身を起こし、こんちくしょう引きずり倒して やると、茜の足に組み付いた。  茜の判断ミスだった。  振り払おうとして、とっさに片足をあげてしまったのがいけなかった。  二人が暴れていたのは、土手の端の、斜面の変わり目のすぐ脇であった。  昨夜の雨露をまだ微かに残している草の葉は、油を引いた床よりも滑りや すい。 ここを越えてしまえば、斜面は少し急になる。 「あ!? あ、あ、ちょっと離しなさいよあんた落ちる落ち……」  気付いた時にはもう遅い。自由落下は万物の理。 「ぐはあああああ――――――――ッッ!?」  バランスを崩した茜と、彼女に全体重を預けていた圭介はなす術も無くも つれ合いながらがたがたの土手を、出っ張る岩に体中をぶつけまくって転げ 落ちた。  ごろごろがつんごろごろがつんごろごろ。  土手が再び緩やかになり、青々と茂る柔らかな夏草に受け止められてよう やく転落が止まった頃には、二人の全身は打ち身だらけとなっていた。 「て、てて……」  立ち上がろうとして、足が死んでいた。  連戦一時間に及ぶ格闘に、圭介の体力はとっくに底をついていた。  土手にごろんと仰向けに転がったまま、起き上がろうという気すら沸かな い。  (……何やってんだろうな、俺は)  抜けるような青空が目に入ると、途端に頭が冷えた。  妹が死んで。  葬式を抜け出して。  幼馴染と殴り合って。  本当に、何をやっているのだろうか。  自分が何をやるべきなのか、分からなかっただけかもしれない。  茜が踏みつけに来るかと思ったが、首だけを動かして隣を見ると、茜も同 じように仰向けに転がったまま、ぼけーっと空を見つめていた。どうやら限 界だったのはこちらも同様だったらしい。お互い、とっくに気力だけで動い ていたようである。  雲が流れていく。  八月四日はもちろん暑くて、思いっきり夏で、どうしようもなく晴れてい て、おまけに葬式で、その上西瓜まみれで、茜とどろどろに殴りあった。  二人とも、顔といわず服といわず西瓜の汁でべたべたで、体には草っぽい 臭いがばっちりと染みついていた。 「お前」  圭介は、蹴られた脇腹をさすりながら、言った。 「暴力性により一層の磨きがかかったな」  茜は苦笑して、小さく「ほざけ」と呟いた。 「……実はな」  茜が言う。 「ハーちゃんがいんでもうてさ、なんでハーちゃんが死ななあかんねんって、 なんかごっつむかついてさ」  知っていた。  同じ気持ちを、圭介は知っていた。  ハルカが死んだのを誰かのせいにしたかった。誰かのせいにしてそいつを 憎んで、憎み倒して、そうやって気持ちのハケ口を作りたかった。でも、 「……ンなの、誰のせいでもないだろが」 「うん」  茜は頷く。 「知っとるよ。誰も悪うない。ハルカの家族は、みんなええ人やもん。でも な、それでもな、うちは誰でもええからとにかく殴りたかったんや。けど、 やっぱ誰も悪くないし、誰殴ってええか分からんかったから」  と、彼女は圭介を指差して歯を見せる。 「俺か」  茜は頷いた。 「なんて奴だ」  圭介は、小さく笑った。  茜も笑った。  動きを止めると、夏の山地はけっこう涼しい。常に新しいものへと生まれ 変わり続ける空気が、上がりきった体温をゆっくりと冷やしてゆく。どこか で蝉が鳴いている。 「けどさ」  ぽつりと。茜が空に向かって言葉を吐く。 「嬉しかった」  圭介は、何が? と茜に視線を向ける。  茜が答える。 「圭介が、ケツまくったるって言わはった」 「それがどーした」  ジーンズのケツを払って立ち上がる茜の顔を、なんとなく見上げる。照り 返す陽射しが眩しくて、圭介は目を細めた。  見下ろす茜は腰に手を当て、圭介の顔に笑顔を投下する。彼女はこんな角 度が大好きだ。 「けーすけ、うちらのコトバ、忘れたんかと思うとったからよ」  なんだそりゃ、と圭介は思う。  思う圭介を無視して、茜は地球の上でからだを伸ばし、再び青空を仰ぎ見 る。 「晴れて良かったね」  風が吹いた。  木々の梢が揺れ、汗と呼吸と草いきれが、西へと流れて消えてゆく。  茜は言った。 「……ハーちゃんがいんでもうたの、雨やったから。葬式くらい、晴れとる 日の方がええやろ?」  圭介は身を起こして、景色の隅に小さく見える本家の屋根を見つめてみた。  葬式はもうとっくに終わり、弔客もみんな帰ってしまった。  辛気臭い線香の匂いも、ここまでは届いてこない。 「ハーちゃんも、きっと喜んどるよ」  風。 「……そうかもな」  透明な空気を精一杯肺に吸い込みながら、圭介も立ち上がる。寝転んでい たときよりも少し手近に、空はそこにある。  何故だろう。  冷たくなった、動かないハルカを見たときも。  坊さんが唱えるむにゃむにゃした念仏を聞いていても。  ずっと実感として沸かなかった『ハルカの死』が、不思議とこの瞬間、圭 介の胸に、静かな感動として追いついてきつつあった。  それはハルカと生きた日々の記憶だ。  馬鹿みたいに殴り合って、思いくそ汗を流して、疲れて痛みを感じて息を して。  自分が生きていることを感じて、圭介は、初めてハルカの死を飲み込むこ とが出来そうだった。  何故だろう。  音の無い感情は、柔らかい砂に静かに水が染み込んでゆくように、  深く、  深く、  圭介の心に染み込んでいった。  ハルカは、死んだのだと。  もう二度と、生きることはないのだと。全身で感じた。  八月四日はもちろん暑くて、思いっきり夏で、どうしようもなく晴れてい た。  もう、葬式なんてどうでもよかった。  晴れてよかったね。  確かに、そうかもしれないと思った。  死んでしまったハルカの魂が何処に行っちまうのかなんて、圭介には見当 もつかなかったけれど。  旅に出る日は、晴れているほうがいいに決まっている。  そう思った。 「茜、ちょっと向こう行ってろや」 「なんでよ?」 「……」 「なんでよ?」 「……泣く、から」  夏は続いてゆく。命みたいに。 (Next→) ”夕立”