なつやすみ[ハルカが死んで、奴らは一体どうしたか]    二幕・夕立 / [ハルカが死んで、島崎茜はどうしたか] ◆ ◇ ◆ ◇  最初にハルカが帰ってくると聞いたとき、茜は、夏休みになったので遊び に帰ってくるのだとばかり思っていた。直接会うのは久しぶりだなとわくわ くした。  だってハルカの手紙には、病気のことなんて、何も書いていなかったのだ。  朝練から帰ってきて、うきうきと飛び跳ねながら里見の家を訪ねて、おは よーございますと元気に挨拶して扉を開けて、茜は死にたいくらいのショッ クを受けた。  なんであんた寝たきりなんよ。  趣味の悪い冗談にしては、あまりに趣味が悪すぎると思った。  毎週月曜日にハルカから届く手紙の書き出しは、いつもこうだった。 「茜ちゃん、お元気ですか? わたしは元気です。」 ◆ ◇ ◆ ◇  蝉の声をかき消して、高らかに響くケトルの警告音。  湯が沸いた。  茜の朝は、一杯のお茶漬けから始まる。  昨日の残りの冷や飯は丼鉢にきっかり半分。結構。それ以上でも以下でも いけない。インスタントのお茶漬けの元をぱたぱたと振ってから、まんべん なくまぶす。  水谷園のお茶漬け海苔。  インスタントお茶漬けは海苔がいい。それが茜の、誰にどんなに脅されて も揺らぐことの無い信念だった。海苔とあられ以外余計なものが何も入って いないプレーンなお茶漬けに、自家製の梅干を乗っけて食べる。彼女はこれ 以外の存在をお茶漬けと呼ぶことを許さない。  そんな彼女に、いつか誰かがこう訊いた。 「……梅茶漬けの素じゃあかんのか?」 「ンなもんはゲスよ」  即答だった。三代続く梅干農家の一人娘、島崎茜の舌は厳しい。  湯は椀の六、七分目に注ぐ。飯がちょうど水面下に沈むくらいがよい。箸 で、固まったご飯の山をざくざくとほぐす。蝉は蝉で、朝っぱらから飽きも せずに鳴いている。  右手に椀、左手に箸を持ったまま、茜は足で扇風機のスイッチを探す。間 違って親父の灰皿を蹴飛ばしてしまったがまあいい。ヤニなど吸わないにこ したことはないのだから。  風が回る。  湯気が流れる。  縁側では豚の蚊取り線香が死の煙を吐き出し、風鈴と蝉が微妙なセッショ ンを繰り広げ、茜はだらだらと汗をかきながらがばがばと茶漬けを喰う。  そんないつもの夏の、朝の風景。 「ごっそさま」  丼鉢をごとんとちゃぶ台に叩きつけ、ぷっはぁと満足げな溜息を吐き出す。 あらゆる仕草がなんか親父臭いと言ってやったら、本人は激怒するだろうか。  すばやく茜は、テレビの下にくっついているデジタル時計に視線を走らせ る。 「ふ」  勝者の笑みを浮かべる。 「一分二十五秒。新記録っ♪」  小さくガッツポーズをして、茜は上機嫌に部活へと向かう準備をはじめた。  茜は陸上部のエースである。幼馴染のシスコン馬鹿曰く、毎度毎度県体で ダントツの成績を叩き出す、走る悪魔である。  後輩からたまに訊かれることがある。どんな練習したら、そんなに速く走 れるんですか? 教えてください、やっぱり人にかくれてこっそり特訓とかし てるんですか先輩って凄いかっこいい。何か勘違いしている女の子からラブ レターを貰ったりもする。  だが。  別に茜は人一倍熱心に練習に励んだりなんてしているわけではないし、特 に思い当たるような特訓もした憶えはないし、効率のいい練習方法も走る時 のとっておきの秘訣なんてものも知らない。  考えられる理由はふたつだ。  ひとつは持って生まれた資質というやつ。こればっかりは個人差あってし かるべきではあるが。そんな細いからだから、どうやったらそんなに殺人的 な蹴りが繰り出せるのかと、くらった面々はみな口をそろえてそう言う。そ してまた蹴られる。  もうひとつの要因は、茜の家の田舎っぷりにあった。  前述の通り、茜は陸上部で、陸上部は夏休みの間も毎日のように練習があ って、陸上部の練習はもちろん学校のグラウンドで行われるわけだが。  何の因果か、茜の家はこれでもかってくらいの山ん中にあった。全ての家 がぼっとん便所の村である。狐も狸も出る村である。茜の家から学校までは、 徒歩で約二時間半かかる。  運動部の練習は、早朝からみっちりシゴかれるのが基本。遅刻なんてもっ ての他だ。  そんなわけで茜は、早朝よりも早い朝に起きて、毎日走って学校へと向か うのだった。  それからまた練習。帰りはまた二時間半。  そんな生活を小学校から続けていれば、差もつこう。健脚にもなろう。  学校から近い市に住んでいる連中でさえ、厳しい早朝練習にネを上げてば ったばったと辞めていくのに、茜はあろうことか、そんな生活を楽しんでい るような気さえある。既に人知を超えていると言ってもいい。  走る悪魔。  なかなかに的を射ている言葉かも知れない。  扇風機を止め、丼鉢を流しに転がして、茜は玄関の戸を蹴り開け、駆け出 した。灰皿を拾うのは忘れた。  今日も一日ガッツと根性。はしゃりくで――――!!  そんなことを心に誓いながら、夏の光に飛び込んでいくのだ。  島崎茜十八歳とは、まあだいたいこんな奴である。 ◆ ◇ ◆ ◇  そんな馬鹿が悩んでいる。  珍しいことではあった。天変地異かもしれない。島崎茜はすぐ怒りはする が、悩むことは滅多に無い人種だ。  ハルカと喧嘩してしまったのである。  喧嘩、といっても、茜お得意の殴る蹴るの喧嘩ではない。なんというか、 感情のすれ違いというやつだ。茜の苦手な種類の衝突だった。  いや。厳密に言えばそれは喧嘩でも衝突でもなんでもなかった。何故なら、 怒っているのは茜一人だったからである。  ハルカの馬鹿兄貴の圭介は知らないが、茜とハルカは、ハルカたちが引っ 越した次の日から、五年間ずっと手紙のやり取りを続けていた。文通は毎週 一通ずつ、一度足りとも欠けることなく続いていたのだ。何故圭介に秘密に したのかと言えば、特に理由らしい理由などはないのだが。  それはなんとなく二人の間で出来上がっていた、秘密の共有という楽しさ と、気恥ずかしさが生み出したお楽しみ要素のようなものだ。現にハルカは、 毎週金曜日にポストに着く手紙をいかに兄に見つからないように受け取るか、 かなり楽しんで苦心し続けていたようである。  ハルカから、「来週から村に帰ります」と書かれた手紙が届いたとき、茜は ちょっとやばいぐらいに狂喜した。  総体が近いかなり重要な時期の部活の練習をサボってまで、ハルカ(と、つ いでに圭介)とどこでどうやって遊ぼうかという計画に没頭した。  三人でよく遊んだ場所へ連れて行こうとか、  村の、五年前とは変わってしまった場所を案内してやろうとか、  昔圭介が川に落ちて流された場所に、もういっぺん突き落としてやろうと か、  市まで下りて、観光スポットとか、駅前あたりを歩き倒すのも楽しいかも しれないとか、  寝食忘れて没頭した。いよいよハルカ(と、ついでに圭介)が帰ってくると いう前日は、遠足前夜の小学生みたいに、いつまでも眠れずに布団の中でご ろごろしていたのだ。  それなのに。  朝練から帰ってきて、うきうきと飛び跳ねながら里見の家を訪ねて、おは よーございますと元気に挨拶して扉を開けて、茜は死にたいくらいのショッ クを受けた。  なんであんた寝たきりなんよ。  趣味の悪い冗談にしては、あまりに趣味が悪すぎると思った。  ハルカは、自分に、何年間も、ずっと嘘をつきつづけていたのだと知った とき、自分でも歯止めの利かない怒りがむらむらと込み上げてきた。  ハルカに悪気はなかった。  そんなことはわかっていた。だが。  裏切られた。  一度そう思ってしまったら、もう駄目だった。  五年ぶりの里見の家。茜は、ハルカの部屋に入るなり言った。 「ハルカ、言いよし」  それが、五年ぶりの再会の言葉だった。 「なんで、ほんまのことを書かぁかったんや!」  怒ると、茜の方便は汚くなる。祖母の影響で、地方でも絶滅しかけたよう な言葉が飛び出してしまう。 「なんで病気しとるって、ずっとうちに隠しとったんやっ!!」  茜が入ってきたときは輝くような笑顔を浮かべていたハルカの表情が、一 瞬にして曇った。 「茜ちゃん……」  短い逡巡。 「ごめんなさい」  ハルカはすぐに謝った。そのことが、余計に茜の胸中を煮えたぎらせた。  茜は叩きつけるように襖を閉めると、そのままずかずかと里見の家を出た。  茜はそれから一度もハルカに会いに行っていない。  そうやって、夏はだんだん暑くなり、ハルカはだんだん死に近づいていっ た。  毎週月曜日にハルカから届く手紙の書き出しは、いつもこうだった。 「茜ちゃん、お元気ですか? わたしは元気です。」  ……わたしは元気です?  今日は家族みんなで買い物に行きました。お兄ちゃんは行きたくないって 言ったけど、わたしがどうしてもって頼んだらしゃーねーなーわーったよっ て言って、着いてきてくれました。  今日は朝学校に遅刻しそうになって、慌てて走ったけど、結局間に合わな くて怒られてしまいました。  今日から新学期です。クラスに茜ちゃんにそっくりな友達がいました。喋 り方まで、本当にそっくり。でも方便じゃない茜ちゃんなんて、なんか変な 感じです。  茜ちゃん、わたし陸上部に入ったよ。だけどわたし足が遅いから、全然駄 目です。毎日汗だくです。沢山練習したら、茜ちゃんみたいになれるかなぁ。  ――全部嘘だった。 ◆ ◇ ◆ ◇  八月三日の朝。いつものように茶漬けを喰っているときに圭介が来た。  茜は知っている。圭介は朝が弱い。こんな時間に訪ねてくるなんて、彼に とってよほど優先順位が高い用件があるからだろう。  賭けてもいい。多分ハルカがらみだ。  おはよう。と軽く挨拶して、奴は勝手に縁側に座り込むなりこう言った。 「ハルカがな、お前に会いたいって言ってたぞ」  ほれきた。茜はなんだか不快になった。 「……ハーちゃん、起きてんの?」 「いや、一昨日から寝たままだ。それでも一日に何分かだけ、ふらっと意識 が戻るときがあるみたいなんだけどな。目も開けないから、見ているほうに しちゃ寝ているのと一緒なんだが。俺が様子見に行った時に、たまたま起き ててさ」  一旦言葉を切ってから、圭介は、縁側の蚊取り豚を見つめながら言った。 「お前と話がしたいって言ってた」 「豚と?」 「ふざけるな」  睨まれた。 「……会ってやってくれないか」  頼まれた。 「……ふぅん」  わざと気のないように、呟いた。  茜だって、会いに行きたいのだ、本当は。  五年ぶりに再会して、しかも病魔に冒されて苦しんでいる親友に、出会い がしら怒鳴りつけるなんてどうかしていた。最悪だ。まるでガキだ。熱くな りやすい自分に、自己嫌悪は無尽蔵に沸いた。  だが、ハルカに嘘をつかれていたというためらいが、胸の奥に消えないし こりとして、しっかりと残っていることも確かだった。  茜は圭介の手前、なんでもないような表情をつくってはいたが、その顔の 下は泣き出したいような気持ちで一杯だった。今すぐ、ハルカのところへ全 速力でかけつけたかった。  茜は迷った。迷いまくった。  今更どの面さげてハルカに会えばいいのか。  会って、ハルカに何と言えばいいのか。  いくら考えても分からなかった。  結局、 「部活があるから――」  口から出たのは、そんな逃げの言葉だった。  言った瞬間、圭介があからさまに落胆の色をみせた。  (……ああくそ、そんな顔すんなやっ)  それだけで、茜の意地はあっさりと削げた。 「……夜になるけど、それでええなら」  そう答えてしまっていた。 「ああ……、頼むな」  圭介の表情が柔らいだ。彼は会釈をひとつすると、じゃあ、と言ってのっ そりと腰を上げて、気配も静かに去っていった。色々なことに疲れているの だろう。少し猫背だった。  (頼むな)  それだけかよ。  なんだか自分に対しての言葉が一言もなかったことが、不満だった。  ……嫉妬?  ンなわけあるかっ。  自分で自分の思考に突っ込んでから、茜はのろのろと、ぬるくなった茶漬 けをかきこんで立ち上がる。  ふと気が付いて時計に目をやる。  十二分三十秒。 「……最低記録」  呟きと共に灰皿を蹴飛ばし(意図的に)、茜は家を出た。  頭を掻きながら、呟く。 「なーんか、かいだりぃ……」  今日はなんだか後輩どもをしごいてやりたい気分だ。よし今日のメニュー はBコース二十周にしよう。  鬼のような事を考えながら、走り出す。つけっ放しだったテレビから流れ る天気予報が、夕方からトコロにより雨が降るかもしれないと告げていた。 ◆ ◇ ◆ ◇  行き道、練習、帰り道。  丸一日何も考えないで全力で走りつづけたら、少し胸がすっとして、やっ とハルカに会う決心がついた。思えば、なんだかぐちぐち考えすぎた。らし くなかった。  自信や嫉妬や、なんやかや。そんなものを抱えて怒っていた自分が恥ずか しくなった。  やるときはやることをすっぱりやる。  そんな生き方が、茜は好きだった。  今のうちはゲスや。  そう思った。  だからすっぱり謝ろうと思った。ハルカが謝ってくるより先に。有無を言 わさず先手を打って、あとは強引に笑い話に持っていけばいい。ただそれだ けでいいのだ。  茜は自分に言い聞かせ、何度も立ち止まりながら、夜のでこぼこした畦道 を行く。里見の家を目指して歩く。  そうだ。ハルカは大事な友達だ。こんなことですれ違ってしまってはいけ ないのだ。 ぐるぐると終わりの無い思考の道を辿っている間に、足は里見の家について いた。  (よし……)  心を決める。  いついかなるときも、まずは元気な挨拶から。それが茜の信条であり、ぶ っちゃけた話処世術でもあった。  茜は湿った空気を肺一杯に吸いこんで、こーんばんわーっと景気のいい一 発をかましてやろうと口を広げて――  気が付いた。  里見の家を包む空気が、いつもと何か違うことに。  それは、悪い予感だった。  背筋を撫でる、灰色の気配。得体の知れない嫌な感覚に気道が詰まる。  開いた窓の隙間から、家の中の光が漏れていた。田舎の夏はあけっぴろげ だ。  これはのぞきだ。  自覚してはいた。してはいたが、茜は隙間に目を寄せて、中の様子を覗か ずにはいられなかった。汚い行為だ。ウチは、汚(ゲロ)い奴や。そんなこと は知っている。  部屋の中には、みんないた。  村で唯一のお医者さんが、無念そうに首を振っていた。おばさんが泣いて いた。おじさんも、おばあさんも泣いていた。圭介が何かを叫んで、何度も 壁を蹴りつけていた。  ハルカは――  ハルカは、動かない。  寝ている?  違う。  寝ているんだよね?  そんなわけ、あるか。 「あ…………」  ぽっかりと、茜は理解していた。  ハルカが、死んだ。 「あ………………」  なにも考えられなくなった。よろよろと、足が自然と帰り道に向いていた。 背中にいつまでも、ハルカの家族の泣き声がこびりついて離れなかった。  いつの間にか雨が降っていた。夕方というには遅すぎる時間の夕立だった。 泣きたいのに、涙なんて出なかった。頬を濡らすのは全部ただの雨だった。  今の自分はゲスだった。もう永遠にゲスだった。  水道が届かない奥の畑に水を引くための、井戸の前を通ったとき、本気で 飛び込んで死んでしまおうと思って、重石の乗った蓋を蹴飛ばして、井戸枠 に足までかけた。  下を見ると、足が震えた。  結局、飛び込めなかった。  クソゲタや。  もうなにもかもが、どうでもよかった。  早く家に帰って風呂に入って寝たかった。ハルカのことを考えるのが怖か った。 「ただいま……」  誰にともなくそう呟いて、水死体みたいにぐしょぐしょに濡れて、玄関を くぐった時、ふと、郵便受けが目についた。  何故そこで、郵便受けが気になったのかは分からない。それは、何かを感 じた、そうとしか呼べない感覚だった。  茜は郵便受けに手を突っ込んで、入っていたものをまとめてつかみ出した。  予備校の案内が一枚と、化粧品のダイレクト・メールと、宅配ピザのチラシ が入っていた。  そして見慣れた茶封筒が一通。  心臓が跳ねた。これは、いつもハルカが使っていた封筒だ。  まさか、そんな馬鹿な――  そう思いながら、封筒を裏返す。  宛先は、島崎 茜様宛て。  差出人は、  今度こそ完全に、茜の心臓が止まった。  差出人の名は、里見 遥(はるか)だった。    他の葉書を投げ捨てて、雨が降っていることなど完全に忘れて、茜はその 場で手紙の封を切った。べとべとに湿った封筒の中から丁寧に折りたたまれ た便箋を引っ張り出して、もうなにがなんだか分からなくなった。  まぎれもなくハルカの愛用していた便箋だった。ハルカらしい馬鹿丁寧な 折り方だった。  おそるおそる、本当におそるおそる、手紙を広げる。  書き出しには、  いびつな字で、  まるで左手で書いたようなはいずり回る字で、  震える手に鉛筆を握って必死で書いたことが泣きたいくらいに伝わってく る字で、  こうあった。 「茜ちゃん、お元気ですか? わたしは病気です。」 ◆ ◇ ◆ ◇ 拝啓、島崎茜様  茜ちゃん、お元気ですか? わたしは病気です。  本当はいつも通りに、わたしは元気ですって言いたいんだけど。そうもい かないです。  この手紙だって、もう自分一人では書けなくて、お母さんに手伝って貰っ てなんとか書いています。  最近じゃ一人でトイレも行けません。寝返りもできません。十分も起きて いると眠たくなります。なんだかどんどん駄目人間ですね。  ……ごめんなさい。病気のこと、ずっと嘘ついてて、ごめんなさい。  そうだよね。わたしはずっと茜ちゃんを裏切りつづけていたんだよね。  本当は、ちゃんと自分の口で謝りたかったんです。でも、それは多分もう 無理だから、こうして手紙を書いています。もう無理だとか、そんなこと書 くなってお母さんが言っています。でもわたしの体のことだから、わたしに は分かるんです。  でも、どうしてだろう。  私は、本当はどうして、茜ちゃんにだけ、嘘をつき続けていたんだろう。  笑ってください。わたしは自分でもそんなこと、一度も考えたことがなか ったんです。へんだよねわたし。  わたしは多分、せめて茜ちゃんの中だけでも、昔と変わらない元気なわた しでいたかったんだと思います。  わたしは、怖かったんです。  少しずつ、からだが動かなくなっていって、今まで出来たことが、ひとつ ずつ出来なくなっていって、でも、一番怖かったのはそんなことじゃなくて。  わたしが一番怖かったのは、わたしの周りにいる人たちが、わたしのこと を今までと違った目で見てくるようになったことでした。  お見舞いに来てくれる学校のみんなも、お父さんも、お母さんも、お兄ち ゃんも。  みんながわたしのことを、今までとは違う目で見るようになりました。  それはしかたがないことなんです。分かっています。だってわたしは病人 だから。  みんながわたしのことを心配してくれているんだって、よく分かっている んです。  でも、わたしはやっぱり怖くて。今までの自分にはもう二度と戻れないの かも知れないって思うと、何度も泣きそうになりました。もういっそのこと、 はやく死んでしまえばいいなんて思ったりもしたんです。  でもね。そんな時にも、茜ちゃんから届く手紙だけが、いつまでも変わら ないで、元気なわたしに話しかけてきてくれていたんです。それはただ茜ち ゃんがわたしの病気のことを知らなかったからだけど、それでも、わたしは その手紙がとてもとても嬉しかったんです。  茜ちゃんとの手紙の中では、わたしは変わらず元気なわたしのままで、毎 朝学校へ行き、グラウンドを走り回り、友達と遊びまわることができました。  毎週、わたしは、ベッドの上で手紙を書きました。怖くて怖くて眠れない 夜、生きてることが嫌になったとき、おっきな手術の前の晩、そんなとき、 わたしは必ず茜ちゃんから貰った手紙を引っ張り出してきて、何時間も何時 間も、飽きずに読み返していました。そうすると、わたしは元気になること ができたんです。  茜ちゃんは人を元気にさせるのがとても上手です。うらやましいです。  わたしは茜ちゃんが好きです。大きな声は出せないけれど、胸だってもう 張る力もないけれど、それでも自信を持って言えます。  わたしは茜ちゃんのことが大好きだし、茜ちゃんがいてくれたから今日ま で生きてこれたんです。  茜ちゃんみたいに走りたい。  茜ちゃんみたいに笑いたい。  茜ちゃんみたいに生きたい。  ずっとずっと、そう思って頑張っていました。わたしは茜ちゃんから、本 当に沢山のことを教えられました。知らなかったでしょう。わたしの先生は、 実は茜ちゃんなんです。  長くなっちゃいました。  とても眠たいです。もっといっぱい話したいことがあるんだけど、今日は とりあえずこれくらいにしておきますね。  最後に。  わたしはいろんな人たちに迷惑をかけながら生きてきました。それなのに、 いろんな人がわたしを好きだと言ってくれます。だからわたしはたのしくて、 うれしいです。  ごめんなさい。  そしてありがとう。                                里見 遥 ◆ ◇ ◆ ◇ 「あああああああああああああああっ……」  島崎茜は、ふやけた手紙を何度も読み返しながら、一人玄関先で嗚咽に沈 んでいた。  夕立に包まれながら、子供のように泣いていた。 「ハルカ……ハルカぁっっ……わりー(ごめん)よ、わりい(ごめん)なぁっ… …」  一行読むたび、涙が溢れた。  茜ちゃん。  手紙の中でそう呼ばれるたび、痛いくらいに胸が締め付けられた。その言 葉には、ただ一辺の曇りもない好意が満ち満ちていたから。  ごめんなさい。  そしてありがとう。  一字一句から突き刺すように染みてくる、脳味噌が曇りそうなほどの、夕 立の日の霧のような優しさが、胸一杯にたちこめていた。  茜は本当に、干からびるかと思うくらいに泣いた。  で、あるからして――  茜がハルカの手紙の末尾にちょこんと書き添えられてあったそれに気が付 いたのは、かなり時間が経ってからのことである。  追伸。  頑張ってね。お兄ちゃんのこと♪ 「ぐはっ……!?」  茜の顔に火がついた。  灰色の雲が流れ、夕立が、温(ぬく)たい雨に変わる。  雨はもうしばらく降り続きそうだ。 (Next→) ”夏休み”