なつやすみ[ハルカが死んで、奴らは一体どうしたか]    終幕・夏休み ◆ ◇ ◆ ◇  みかん。  もいだ冬の果実を鼻先にあてがったときの、黄色い香りを思い出してみる。  発散された無数の匂いの分子が、鼻腔から脳味噌の真ん中まで一直線に浸 透してくる、あの切ない感じ。蜜柑の感じ。  村から引っ越してきて間もない頃、給食の時間、友達が蜜柑を「剥いて」 食べている姿を見て驚いた。蜜柑は割るものだと信じていた。  ええと。まず、蜜柑の尻に親指の爪を突き刺します。赤ちゃんのお尻に爪 を立てたみたいで、微かな罪悪感。そこを基点に実を皮ごとばっくりと二つ に割ります。『十戒』でモーセが海を割ったシーンを思い浮かべながら、信 念に殉じる勢いで割るのがコツです。  次に半分こになった皮から、房の固まりだけを取り出します。ここがちょ っと難しい。試練です。乗り越えよう。あらかじめ蜜柑をぐにぐに揉んでお くと上手くいきやすいかもしれません。  お母さんも、お父さんも、おにいちゃんも、よく知らないおじさんも、村 ではみんなそうやって食べていた。茜ちゃんは皮ごとかじっていたけれど。  そのことをクラスの男の子に言ったら、次の日『だべ』って仇名がついた。 田舎といえば『だべ』らしい。幼いわたしは「わたしの田舎は『だべ』なん て言わないよ!」と必死の反論を試みたのだが、仇名はたちまちクラス中に 伝染した。  あの時は悲しくて、悔しくて、めいっぱい泣いた気がする。  思い出すとなんだか無性に蜜柑が食べたくなったが、残念ながら、今は夏 だべ。 「どうしたのハルカ、眠たいの?」  補助席から体を乗り出して、お母さんがそう聞いた。心配そうな表情。あ んまり沢山心配顔をしてきたせいで、そういうかたちに皺が固まってしまっ たような顔。 「んん……」 「大丈夫? ……どこか痛い?」  わたしは口元を緩めて笑顔を作る。 「だい、じうぶ」  ちっとも大丈夫じゃない返事が出た。ばかやろうわたし。  病弱な美少女なんて表現だとどことなく綺麗なイメージが喚起されるもの だけど、現実は厳しい。美少女かどうかはともかくとして、病弱にはちょっ とした自信があるわたしが言うのだから間違いない。  今回の帰省だってそうだ。わたしの体は、核兵器を輸送するのと同じくら い慎重に運ばれている。  お母さんの手さげの中には緊急用の点滴と強心剤が入っている。発作が酷 くなったらぶっとい針を心臓の上からどすんと突き刺す。そうすればわたし は、七時間だけ長く生きられる。  おっぱいの上からはニトロのシールがべたべたに貼り付けられているし、 長時間座っているだけで疲弊してしまう体は、ボディサポートという器具で 座席に固定されている。おしりの下は障害者用の吸収パンツに尿取りパッド の二段重ねだ。わたしは汚い女の子だ。自分でトイレも我慢できない。 「大丈夫だよ……、心配ない」  もう一度、今度は口の中で言葉を確かめるように転がしてから言い直し、 お母さんを安心させる。  うん、特別どこかが痛いわけじゃない。いつも通り、全部がずっと痛いだ け。  痛み。  痛いことがあった時、わたしはいつも蜜柑の匂いを思い出す。転んで膝を 擦りむいたときも、学校帰りに足がしびれて公園の階段から転落したときも、 最後の手術の日、麻酔の針がちくりと腕に入ってくる瞬間も、蜜柑の皮の剥 き方のことを考えた。  それは無意識に焼き付けられたイメージの連鎖だ。蜜柑、剥き方、楽しい わたし。梅干を見てよだれを垂らす犬とおんなじだ。  あれ? ……そんな犬はいなかったっけ?  虫。  わたしは、一匹の小さな羽虫が車の中を飛んでいるのを見つけた。  よく見えないけど、あのスレンダーなスタイルは多分蚊だ。何処から入っ てきたのだろう? 夏の山には蚊が多い。  わたしたち一家を乗せた車は今、古里へと続く山道を登っている。  国道と言えば聞こえはいいが、実態は峠のマニアもローギア入れて逃げ出 すような酷道で、道はヒビ割れ路肩は崩れ、工事のための片側通行や通行止 めなんて日常茶飯事。ウインドウの外を眺めていると、次々に現われる『落 石注意』と『転落死亡事故多発』と『動物飛び出し注意』の看板。上からは 石、下には崖、横からは小動物。正面から来る敵は対向車で、こいつが出現 した日には、一車線しかない道路を延々バックして、行き違いできるポイン トまで亀みたいにのそのそと下がらなくてはいけない。  蚊は、ふらふらと漂うように、フロントのガラスに張り付いた。  お母さんは気づいていない。  お父さんは黙々とステアを握っている。  お兄ちゃんは、わたしの横で寝たふりをしている。  お兄ちゃんは寝ていない。からだをドア側にもたせかけて目を閉じ、規則 正しい呼吸を吐き出してはいるが、意識はきっと目覚めたままだ。お兄ちゃ んが起きている時は気配で分かる。  お兄ちゃん。  わたしはお兄ちゃんが好きだ。  家族だからとか、優しくしてくれるからとか、そういう意味もあるけどそ うじゃない。  多分もっと特別な意味で、わたしは、お兄ちゃんが大好きだ。  自分の気持ちに気づいたのはいつ頃のことだったっけ?  わたしはわたしに問い掛ける。唇が重たくなって、喋るのが苦手になって から、わたしは自問自答が上手になった。思考の過程でわたしは何度も自分 自身に問いかけを放つ。  たいてい疑問が頭に浮かんだときは、同時に答えも自分の中に生まれてい るものだ。ただ、見たくない暗闇の向こうに引っかかってて、引きずり出す のが難しいだけ。わたしが最後に耳掃除をしたのは二ヶ月前のお昼前。  わたし。  わたしは汚い女の子だ。  自分でトイレを我慢する力もなくて、夜中はお漏らし放題で、お風呂にも 入れなくてタオルで体を拭いてもらうだけ。内臓は病原体の温床になってる し、髪の毛は邪魔だからってざくざく切られてまるで男の子みたいで、新し いお母さんやお父さんにいい子だって思われたくていつも笑顔を作っていて お兄ちゃんに恋してる。命を懸けた最後の手術だって失敗した。  時々思う。  わたしはきっと、わたしが一番大切なんだ。  他の誰よりも、自分の体の質量が大切なんだ。病院のベッド、暗い夜。夢 の中で何度も神様に出会った。山の奥の、小さな祠に住んでいる小さな神様 だ。景色は綺麗な夕焼け。わたしは神様にお願いをする。お願いします、助 けてください、死にたくないです。病院にはわたしと同じような重い症状を 抱えた患者さんが沢山いる。わたしは祈る、必死に祈る。どうか、次に死ぬ のがわたしじゃありませんように――  手紙。  村にいた頃からの友達の、茜ちゃんとずっと文通を続けていた。  わたしは嘘ばかり書いた。茜ちゃんは怒るだろうって分かっている。  この壊れた口で、面と向かってどんな言い訳をしても、絶対に許してもら えないだろうと知っている。  だからわたしは、茜ちゃんに送る最後の手紙の文面をもう思いついている。  そしてまた嘘をつく。  嘘。  わたしはうそつきだ。福沢諭吉に怒られる。  わたしは何のために嘘をついているのだろう?  わたしはきっとわたしが一番大切で、周りの人にそのことを気付かれたく ないから嘘をつく。自分を隠す。綺麗な女の子のふりをする。  誰にも気づいてもらえなかった虫は後部座席へと飛んできた。動けないわ たしの前を通り過ぎ、お兄ちゃんの、Tシャツから剥き出しの腕に食いつい た。お兄ちゃんは腕を振るってはねのけた。ほら、やっぱり起きてたね。  お兄ちゃんがこちらを向いた。目と目が合う。お兄ちゃんは少し不器用だ けど、優しい目をしてくれる。でも絶対わたしの気持ちには気付いていない。 不器用だから。  ……もしもわたしがお兄ちゃんに告白したらどうなるだろう?  お兄ちゃんは半端じゃなく苦しむに違いない。自分を責めて、物に当たっ て、わたしが死ぬまでわたしの前でだけはやさしい人でいてくれるのだろう。  茜ちゃんは怒るだろう。激怒というより噴火するだろう。わたしはきっと 殴られる。  それでも最後は自分の気持ちを自分で殺して、お兄ちゃんとわたしをくっ つけようとしてくれるのだろう。  ねぇ、みんなのことなら自分のことよりもよく分かるんだよ、わたし。  みんな、ちょっとずつ嘘をついていて、みんな自分以外は嘘ついてないっ て信じてる。  車内のクーラーが吐き出すぬるい風に、わたしの体は少し震えた。  熱があるみたいだ。  どうりで変なことばかり考える。  産まれた日から、わたしの中を流れている血潮が、ぐるぐるぐるぐる、体 の中を巡っている音が聞こえる。  わたしはまだ生きている。  居場所を無くした蚊は、お兄ちゃんの真横のウインドウに張り付いた。  おれはどうしてこんなところに迷い込んでしまったのだろう? 外の世界 に出たいなぁ。  そう言って溜め息をついているみたいに見えた。  虫が眺めている窓の外。傾斜した地面に並ぶ木々は、垂直に伸びることが 出来ずに、様々に曲がりくねって生えていた。いびつで、不揃いで、醜くて、 必死な、そんな木が無数に集まって森を作っている。  長くてカーブばかりだった山道も、そろそろ終着点に近づいた。  私たちを乗せた自動車は、最後のカーブに差し掛かる。  お父さんがステアリングを大きく切った。  おにいちゃんがウインドウに平手打ちを喰らわせた。  舗装の悪い砂利道の上で、車体ががたんと大きく跳ねた。  林道が終わり視界が開ける。  そうしてわたしは決心をする。  今際の際に、最後の言葉を伝えられる瞬間があったなら、  ありがとうでもごめんなさいでもなくて、  おにいちゃんに好きだって伝えよう。  たとえその結果、誰が傷ついたって、  構うもんか。  平気なんだ。  わたしは汚い女の子だから平気なんだ。 「ほら見ろよハルカ、村が見えるぞ!」  お兄ちゃんの声で我に返って、わたしは再び視線を外へと移す。  わたしの惚れてるお兄ちゃんの横顔、  ウインドウに張り付いた蚊の死骸、  そして、その向こうに懐かしい古里の光景が――    広がっていることを確認する前に、  わたしは押し寄せた睡魔に潰されて、ゆっくりと瞼を閉じた……  夏休みがはじまる。 (repeat)