天国の金属はどうだい  藤原アリカは金属を食べる。はじめてそれを見た人間は、ひとり残らず肝 をつぶした。彼女の彼氏――つまり、ぼくだ――も例外じゃなかった。  打ちあけられたのは、三回目のデートのときだ。映画館を出て、ぼくらは レストランでランチを摂った。皿の上に残ったパスタを器用な手つきでくる くるフォークに巻きつけながら、藤原アリカはおもむろにいった。 「わたしね、実は、金属を食べるの」  唖然とするぼくを尻目に、アリカは最後の一口を――フォークごと、飲み こんだ。  彼女が話したところよると、この驚異の悪食癖(と言っていいのかどうか) は、どうやら思春期に入ってから具わったものらしい。十三歳ですべての乳 歯が永久歯に生えかわった頃から、アリカの平凡だった食生活は、ありとあ らゆる金属にたいして拓かれた。  生まれてはじめて食べたのはなに? とぼくが訊くと、アリカは「音楽室 のフルート」と答えた。 「吹奏楽部だったのよ。中学生のときにね。ひとりで練習をしていたら、急 に、それが、楽器じゃなくて食べものに見えたの」  気づけば彼女はフルートを食べていた。とても自然に、流れる仕草で。噛 み砕かれた洋銀は、舌の上で、バニラアイスのようにとろけた。  あらたな嗜好に目覚めたばかりの少女には、目に映るなにもかもがご馳走 だった。  たとえば文鎮。理科の時間に使った分銅。クリーム色の小さな自転車。造 幣局を出てきたばかりのきらきらしたコインまで。  アリカは大人の階段を登る過程で、さまざまな金属を手あたりしだいに味 見しては、その食欲を満たして育った。もちろん肉親や、一部の親しい友人 以外には秘密にして、であるが。  二十歳を過ぎてからは、「健康のことを考えて」金属を食べるのは基本的 に一日三回までと定めた。毎食後にだけ許す、デザートとしての楽しみ。 「本当は別腹っていうか、いくらでも入りそうな感じなんだけど」と彼女は 苦笑した。「あんまり食べると、体重おもくなりそうだしね」  そういう問題なのかどうか、ぼくは知らない。  彼女がフォークを食べたとき、逃げだしたいと思ったか?  正直に言おう。答えはイエスだ。でも、同時に強く惹きつけられもした。 目の前でぎくしゃくしながら思い出を語るアリカは、言ってることこそ普通 じゃないけど、中身は誠実な女の子だった。  間違ってない、とぼくは思った。その気持ちは一日が終わる頃には確信へ と変わっていて、ぼくは来週また遊びに行こう、と彼女を誘った。  そして四回目のデートがあり、五回目のデートがあった。六回目は七回目 と手をつなぎ、八回目は九回目を呼ぶ。十回目、十一回目……そのあたりを 過ぎると、もうお互い数えてもいない。  八ヶ月前の今日、ぼくは彼女にプロポーズをした。ぼくが差し出したプラ チナの指輪を、ぽいと口に放りこんでアリカはいった。 「おかわり!」  彼女とつきあって、失敗したかも、と考えたのは、後にも先にもこの瞬間 だけだ。  ひきつるぼくを満喫してから、奥歯にはさんだ指輪を取りだし、アリカは それを薬指にはめた。  ぼくにはひとつの疑問があった。くだらない疑問が。  あのときの、エンゲージリングを飲みこんだアリカの冗談。ぱくりと指輪 を口に含んだときの彼女は、ほんの一瞬でも、本気で食欲をそそられたりは しなかっただろうか?  一度も食べたことのないプラチナという珍味を、食べてみたいとは思わな かっただろうか?  式場の下見や打ち合わせの合間に、ぼくが仕返しの意味もこめて意地悪く この話を持ちだすと、アリカは「いくらなんでもそれはないよ」と笑って否 定の言葉をならべた。  先週、彼女が脱線事故にまきこまれて横死したとき、現場で遺体を搬出し ていたスタッフは、異常を感じて検死官を手配した。この判断には、賞賛を 贈るほかはない。  横転してひしゃげた鉄道車両のところどころに、歯形のついた奇妙な穴が 虫食いのごとく空いていたからといって、どうしてそれをひとりの女性が食 い破ったと想像できるというのだろう?  しかし、ちいさな証言がいくつかあった。  折れ曲がったドアの下敷きになっていた子どもが、「おんなのひとがドア をかじって、ぼくを助けてくれたんだ」といった。  瓦礫に埋もれて唯一の出口を板金に塞がれ、酸欠状態に陥っていた男性は、 「誰かがものを食べてるような音が聞こえた。急に空気が肺を満たした」と いった。  脱線の衝撃で頭部を強打し、おびただしい量の出血をしていたにも関わら ず、藤原アリカの遺体には、現場を何度も動き回った形跡があった。  検死にまわされた彼女の消化器官から、大量の列車部品(のなれの果て)が 検出されたらしいという記事は、ゴシップだらけの週刊誌に、小さく報じら れただけだったけれど。  けれど。  ぼくはこの検死の結果について、詳しい説明を要求し、ひとつの事実を聞 き出すことができた。  命が停まる寸前に、彼女の胃液が溶かそうとしていたもの。自分の死が避 けられないものだと悟った瞬間、アリカが最期に食べたもの。  それが何かという事実。  それは、プラチナでできたエンゲージリングだったという事実。  発注していた結婚指輪が届いたので、ぼくはひとつを自分ではめて、残っ たひとつをどうしようかと思案に暮れた。奥歯と奥歯のあいだにはさんで、 力まかせに噛んでみた。  刺すような痛みが走って頭の中がかきまわされる。ぼろぼろと、涙がこぼ れる。  天国の金属はどうだい、アリカ。  歯ごたえのない、ふにゃふにゃばかりじゃないのかい?  お腹がすいたらいつでも帰ってくればいい。  指輪のおかわりは、ここに置いておくからね。 (that's all)